この道の先には
過ぎるほどに生真面目な一面のある少年は、暇さえあれば鍛錬に明け暮れているそうだ。微笑ましいひたむきさだと双眸を和ませる半面、気負いすぎて崩れてしまうことを懸念していた科学班室長の言葉は記憶に新しい。別段、気に留めるつもりなどなかったのだが、どうやら自覚していた以上にこの新しいエクソシスト候補者が気にかかっていたようだ。
細身のスラックスにシャツを羽織り、湿った髪をぞんざいに襟首でまとめた姿はどう見てもシャワー帰りといったところ。これまでに教団内で見かけた姿を思い返しても、シャツの裾が無造作に翻っているのははじめて見る。いずれにせよ、造形が整っている分、観賞するのにやぶさかではない対象だ。物珍しさも手伝ってまじまじと見やる先、差し出されていた書類がゆらりと動き、むっつりと引き結ばれていた唇が綻ぶ。
「受け取ってはもらえませんか」
「いいぜ、代わりに付き合うならな」
顔立ちは男にしておくのがもったいないほどだというのに、変声期を経た声は意外に低く男らしい。最低限の礼儀として敬語を使ってはいるが、愛想のなさが前面に押し出された口調は逆に不躾さを感じさせる。しかし、それさえ様になるのだから美人は得だとクロスは唇を歪める。
「……付き合う?」
「ちょうど酌をしてくれる美人が欲しいと思っていたんだ。ついでだから付き合え」
訝しげに繰り返された単語に軽く頷き、男は返答を待たずに踵を返して室内へ戻る。不機嫌に加えて不本意だと雄弁に語る視線が背中に突き刺さるが、痛くもかゆくもないので放置する。内心でどれほど何を考えようと、立場の違いは覆しようがない。
言葉遣いと態度に大きな難点を抱えてはいるものの、神田は従うべき相手と命令を見誤るほど愚かではなかった。
あえて照明を落としているのか、部屋の中は暗闇に満たされており、窓辺だけが蒼白く切り取られたような違和感を醸し出していた。
「これはどうしますか?」
「その辺に置いとけ」
明度の変化に耐え切れなかった瞳孔が落ち着くのを待って立ち止まっていた少年は、指示をいいことに手の中の書類を窓辺に置いてあった机へと放る。たまたま廊下で行き会った科学班班長のあまりの荷物の量と今にも死にそうな顔色の悪さに、珍しいことに同情を覚えたのが運の尽きだった。こんな面倒くさい雑用を頼まれるのなら、二度と手伝いなど申し出るものか、と。届ける相手があまりに悪すぎたという限定条件は綺麗に切り捨て、少年は胸の奥で固く己に誓いを立てる。
酒瓶が無造作に転がる室内は混沌としていて、迂闊に踏み入ったものを片端から飲み込むような錯覚を覚える。言い知れぬ場違い感から思わず丹田に力を篭める神田とは対照的に、さすがは部屋の主といったところか、クロスは悠々とした足取りで瓶を片手にチェストからソファへとやってくる。
「いい酒は、いい女の酌で飲むのが一番なんだがな」
直立の姿勢を崩さない神田に瓶を押し付け、自分はソファにどっかりと腰を下ろし。クロスは、威風堂々たる態度でもって神田へと杯を突きつけた。
浅いという言葉に満たない程度の付き合いではあったが、神田は神田で、クロスの人となりとは把握していた。自分の手には負えない、逆らいようのない、できれば関わらない方がいい相手。そう認識していればこそ、不平不満を噛み殺し、瓶が空になるまでと必死に己に言い聞かせて男の隣に立っているのである。
「もう少し愛想良くしてみたらどうだ。小娘はしなを作ってみせたぞ?」
干された杯に酒を注ぎ足そうと神田が重心を移動した瞬間を狙い、腰を攫ってソファの肘掛へと座らせながらクロスは瞳の奥に底意地の悪い笑みを灯した。不意打ちに、おそらく酒をこぼすまいと意識するだけで手一杯だったのだろう。いつになくあどけない表情でクロスを見上げていた少年の頬に、さっと羞恥と屈辱の朱が上る。色気からは程遠いものの、それなりに面白いものを見ることができた。
慌てて立ち上がりはしたものの、一歩下がりかけて元の位置に踏みとどまったのはなけなしの意地とプライドか。そのまま、先ほどの男の発言についてあれこれ考えているのだろう横顔も含め、あまりにわかりやすい態度に思わず笑声を上げ、振り向いた仏頂面にクロスは酒を要求する。
「お前、そんなに小娘が気になるのか? ただの古馴染みだろうに」
注がれる酒を見やりながらふと質せば、少年の手元がぴくりと揺れ、グラスの縁で水面が揺らいだ。非常識なほど並々と酒を注いだことには言及せず、ことさらゆっくりと姿勢を戻した少年は、返答の代わりに探るような視線をクロスへ返した。
一滴たりとも無駄を出さないままグラスに口をつける男の視界で、神田が微かに身じろぐ。そして、深く深く息をして、声が低く落とされた。
「元帥には関係ありません」
「確かにな。お前らの関係なんざ、俺の知ったことではない」
予想通りの小生意気な返答を鼻で笑い、クロスは神田の言い分を肯定した。そもそも、教団に関わるような人間は、大概が質面倒くさくて厄介なものを抱えている。いちいち詮索していたら身が持たないから、互いに見て見ぬふりをするのが暗黙の了解でもあった。だが、それを知った上で男はあえて話題を貫き続ける。
「いつか小娘を切り捨てる日が来るぞ。抱えれば抱えるほど重くなる。お前に、覚悟はできているのか?」
ぞっとするほどの低く迫力に満ちた声で残酷な問いを重ね、クロスは傍らの少年を見上げる。エクソシストは貴重な存在だ。ゆえに、過酷な任務を経るうちに変に途中で潰れられるくらいなら、今のうちに潰してしまえと考えながらの質問には、しかし、暫しの沈黙を挟み、いっそふてぶてしいほどの不敵な笑みが返された。
「俺たちは自分の意志で戦うことを選びました。互いになせることをなすだけです。足手纏いにはなりません」
声は傲慢そのもの。所詮は浅い考えしか持たない子供よと、より過酷な現実を突きつけることで教育を施そうかと考えたクロスに、少年はふと表情の色味を変えてみせる。幼さゆえの傲慢さから、年経たものが持つ深く暗い嘲笑へ。
「振り向くことさえ許されないと知っています。たとえこの手が何を切り伏せても、すべてを踏み躙って前進することしか許されない。――力を手にするとはそういうことだと、俺たちは教えられました」
覚悟もしないままに力に手を伸ばしたわけではないと。お前にはその覚悟すらないのかと。瞳の色だけで言葉以上を語り、神田ははたりと、表情と呼べる一切のものを掻き消した蒼黒の瞳を瞬かせる。
言い切るは、強く純粋な声。抱えられなくなったものを切り捨て、それでもなお前へと進むことを知っている声。
だが、まだ足りない。まだ青い。
少年はまだ、己の中で最も重いものを喪う瞬間を知らないのだろう。そして同時に思う。この少年はきっと、壊れた心を抱えて血まみれになってでも、前に進むのだ、と。
立ち止まり、泣き叫ぶことさえできない脆弱さを糧に死へと邁進する。それを破綻と知らず、それを絶望と知って知らぬふりをして、虚無へと続く孤高に身を投じることを選ぶのだ。
「ならば、観ていてやろう」
「ご配慮、痛み入ります」
たとえ足りなくともそれをわかっているのなら、わざわざ教え諭すような面倒を背負い込むことはない。ただ、見届けてはやろうと唇の片端を吊り上げて尊大に宣言すれば、感謝の色も可愛げの欠片もない声が返される。
少年は言った。たとえ何があっても踏み越えていくのだと。少女は言った。ともすれば己の死を意味するだろう未来を予見し、それを超えて少年が誰よりもエクソシストらしいエクソシストになると。ならば、それらを聞き出した対価に、神父たる自分は気まぐれにも預言を授けよう。
「それと、これは先達からの助言だ。救いは、時に犠牲の向こうにあるもんだぜ」
元帥としてこの厄介な子供を弟子にしてやるつもりはさらさらないが、稀なるエクソシストが生まれるための布石をひとつ張ってやろうではないか。
捻くれた思惑と無知な子供たちへの哀れみを含めた声は、ただ静謐。それを受け止めた端正な眼差しは、いっそ空虚。
「もとより、覚悟の上です」
ああ、救いようのない。
たおやかな応えにクロスが思ったのは、らしくもない感傷だった。
Fin.