消し去ってしまいたい何か
黒の教団本部はいつでも何かしらの慌しさに追われている感のある場所だったが、その日のそれはいつもと大分色味の違う慌しさだった。廊下を行き交う団員の表情は厳しく、ぴりぴりと張り詰めた空気が漂っている。
どこかで何か緊急事態が生じたのだろう。ひどく漠然とした推測だったが、それ以外に思いつかなかったし、それこそが正しいとは確信していた。平和な日常にうっかり忘れてしまいそうになるが、教団は千年伯爵と戦うための人間たちが集った、ごく特殊な軍事機関なのだ。
急ぐ人間の移動を妨げないよう、少女は壁沿いを歩く。このところ、午後はつい先日送られてきた各支部からの報告書類の分類と取りまとめ、および書庫への収納にあてている。戦闘はおろか、サポート部門でも最前線で役立つにはあまりに力不足であることを自覚しているはその分、与えられた仕事に対して深い情熱を持って取り組んでいた。
喧騒の原因を知りたくないわけではなかったが、一刻を争って働いているだろう彼らの邪魔をするわけにもいかない。ならば、自分にできることを精一杯に。それがいつかどこかで役に立つことを願いながら、周りにつられる形で速まる足を動かし、は書庫へと急ぐ。
いつもならば科学班の誰かしらと遭遇することの多い廊下も、今日ばかりは閑散としていた。そして、いつもならばこの時間帯は建物周辺の森で鍛錬に明け暮れているはずの少年が、見慣れないコートを着て足早に歩いている。
「ユウ?」
ある程度まで近づけば、どうせ気配に気づくだろう。そう確信した上で小走りに駆け寄り声をかけるのと、少年が足を止めて振り返るのはほぼ同時。隣に立って足を止め、はじめて見るコートに改めて目をやった少女は、何とも言葉にしがたい思いを篭めて「ああ」と小さく声を漏らす。
黒の丈夫な布地に、銀ボタンの装飾。そして、左胸に縫い取られた薔薇十字。それは、教団においてもごく一握りの人間だけが着用を許された聖衣。
分かっていた、望んでいた、そして恐れていた日が、ついにやってきたのだ。
切なげでいて恨めしげな視線を教団の象徴に送っている少女を静かに見下ろしていた少年は、沈黙に滲む感傷を蹴破っておもむろに口を開く。
「俺はこれから任務に出る」
少し前からバタついてるのは知ってるだろ。増援要請だと。それが任務の内容だろうな。
言葉少なに必要事項のみを羅列し、神田は右手に握っていたイノセンスを少女の眼前に突きつける。
「ようやく、はじめられる」
それは、だけにすべてが正しく通じる言葉。コムイやクロスといったごく一部の教団関係者には多少の予測がつくだろうが、決して全容を知りようのない、神田の生きる目的の一端。
湧き上がる感情を飲み下し、は黙って頷いた。その目的はの願いでもあり、その目的こそが神田を戦場に駆り立て、その目的ゆえに二人を生へと執着させる鎖。
覚悟を決め、駆け抜けることを決め、そしてここまで来た。ならば、歩む足に絡む存在は切り捨てるべきなのだ。たとえそれが、どうしても捨てきることのできない感情であったとしても。
目の前にある神の結晶にそっと手を伸べ、は瞳を閉じて祈りを捧げた。
どうかどうか、彼を帰して。連れていかないで。彼に、彼の望む力を与えて。願いの対価に贄を欲するというのなら、この魂を捧げても構わないから。
知らず震えていた指をすっと滑らせ、は故郷の社で己が祭っていた神剣に無音の宣誓を立てる。少女こそは、刀に宿りし神を祀り、鎮めるための供犠たる巫女。その身を供物に、願いを叶える権利を持つもの。
二人が目的とする約束の成就を遂げるための直接の力を持たないにとっては、それだけが約束を守るために神田と同等のものを懸ける手段。
「神なる剣よ、契約に従い、担い手たるこの者に加護と力を与えたまえ」
形骸的な、御伽草子にも等しい神話だと思っていた。それでも、神の剣であるという言い伝えが事実であるなら、自分の担う役割も意味を成すだろう。
機を逸するばかりでなかなか紡ぐことのできなかった言葉は、神の声を聞いた巫女が、神によって与えられた剣を担い手に託す際に添えたという言祝ぎ。遠く喧騒の響く廊下は決して祭壇に相応しくなかったが、告げるも受け取る神田も、清廉な空気を崩さない。
静かに瞳を開いたが指を外すのを待ち、神田は刀を左手に持っていたベルトへ括りつけて背に負った。
「気をつけて」
「ああ」
余計なことは言わない。覚悟に水を差すようなことはしない。なせること、なすべきことを余すことなく、精一杯に。それがあの人の口癖であり教え。二人にとっての指針。
別れを惜しむような時間の浪費はせず、実に無駄のない動作で踵を返した神田は、廊下をまっすぐに駆けていく。一度も振り返ることのなかった背中が角に消えるのを見届け、もまた踵を返し、その日の仕事を片付けるべく書庫へ向かって再び歩きはじめた。
Fin.