駆け抜けるように過ぎた
〈さあ、次に行くわよ。今度はこれ。からね。――Start!〉
「ええと、りんご。Apple」
「赤。Red」
「丸い。Round」
ぽんぽんと交互に声を上げるのは、机に向かって必死にペンを走らせる黒髪の少年と少女。二人の手元を反対側から覗き込み、ふんふんと頷くのは彼らよりも年上の同じく黒髪の少女。もっとも、こちらは少女から女性へと変容を遂げつつある顔立ちだ。
「甘い。Sweet」
「酸っぱい。Sour」
〈Sour も正しいけど、acid の方がいいかしら〉
少年のあげた形容に少女が追随すれば、すかさず合いの手が入る。遣り取りを止めて顔を上げた少年と少女は、それぞれ首を傾げて説明に耳を傾ける。
見つめてくる二対の瞳ににこりと笑いかけ、アニタは手元の紙に自分の提示した単語のスペルを綴る。
〈Sour だと、りんごはちょっと違うと思うの〉
「だから、中国語はわかんねぇって」
「アニタ姉さま、私、間違っていました? Mistake?」
丁寧な、ゆったりとした発音を心がけられているのは明白だが、あいにく神田もも自国語以外に馴染みはない。文章に起こされれば多少は読解も可能だったが、扱う文字の壁もまた厚かった。時間さえあれば日本語を理解できる人間が手伝いに来てくれるのだが、彼らにも仕事がある。よって、二人に英語を教え込む作業の大半はアニタが担っているのだ。
〈過去形よ、。The past form. Mistook, right?〉
「え? あ、ええと、mistake, mistook, mistaken」
ぴしりと訂正を入れられ、はっと息を呑んでからは慌てて繰り返す。言わんとしたことを正しく理解されたと知り、アニタの笑みは深くなる。
慣れない船旅にぐったりとした子供たちがアニタの母の営む妓館に連れてこられたのは半月ほど前のこと。幼さの残る子供たちに唖然としたものの、つれてきた船乗りは日本に潜伏する貴重なサポーターであり、実際にイノセンスを発動させられては疑う余地もない。
絶望の島国からやってきた希望の灯火を確かな光に育て上げるため、かの国の言葉を理解できる人間が少なからず集うここで、できるだけ速やかに彼らに英語を叩き込むことは、アジア支部経由で教団本部から与えられた勅命である。いきなり英語圏に連れて行かれるよりは、多少なりとも予備知識のある隣国で猶予期間を置いた方がよかろうというのは子供たちへのギリギリの配慮でもあったが、その命に誰よりも胸を高鳴らせたのは迎え入れたサポーターたちである。
〈間違ったわけではないの。酸っぱい、という意味はあっているんだけど、なんて言えばいいかしら?〉
まだ英語を学びはじめて十日ほどの二人に、複雑な構文や単語は通じない。物覚えは良いらしく単語の吸収速度はなかなかのものだったが、それも名詞が中心だ。生活に即した動詞ならともかく、それ以外は通じない。
「間違っていないの?」
「だが、合ってもいねぇってことだろ。言い回しの問題か?」
言葉に詰まったアニタの向かいで、神田ともまた母国語による検討をはじめる。
それぞれがそれぞれの困惑を抱えて首を捻りあうが、打開案は見つからない。奇妙な三つ巴の空間は、しかし、ひょっこりと顔をのぞかせた下働きの女の笑顔に崩される。
〈アニタ嬢さま、実際に食べさせてやればいいんですよ。ほら!〉
笑いながら皿に盛った果物を差し出し、女は子供たちに食べるようにと身振りで示す。
エクソシストは希望の光。見知らぬ他人の手にしか思いを託せない彼らにとって、自分たちの手でその誕生に関われるのは、この上ない喜びだった。誰もが出来る限りの情愛を篭め、希望と願いを子供の細い肩に乗せていく。それでも、年端もいかない子供に重荷を背負わせることは少なからず心に咎めるのだろう。言葉さえまともに通じない、それでも弱気な態度をみせようとしない二人を、ことあるごとに大人たちはこうして構い、気遣う。
「くださるの? May we eat them?」
〈Feel free.〉
〈遠慮せずお食べ〉
「I owe you a lot.」
唐突の申し出に驚いたのか、皿と女とアニタを交互に見やっていたが口を開き、返される笑みに丁寧な会釈を送って隣の神田に「いただきましょう」と笑いかける。
は一単語ずつ区切った礼と丁寧な会釈を、神田は小声で呟き小さく会釈を。それぞれに感謝の念を示し、促されるままわざわざ山を分けてあったぶどうに手を伸ばす。口に含むのが同時なら、それぞれの表情が分かれるのも同時。神田は眉間に皺を寄せ、は目元を和ませる。
「なんだよ、これ!」
「え? 甘酸っぱくておいしいわよ?」
楽しそうに声をあげて笑う女の隣で、アニタは納得したような困ったようなはにかみ顔を浮かべる。そして、あからさまにへそを曲げてしまったらしい神田と不思議そうなを呼び、表情はそのまま解説を続ける。
〈は sweet and acid ね。それで、神田は sour よ。それは acid じゃなくて、sour なの〉
それぞれの山を示しながらの単語の使い分けに、神田は不服そうながらも納得の声をあげ、は首を傾げている。
「お前も食ってみろよ。一発でわかる。言い回しの問題だな」
「そうなの? 違うの?」
「気分の違いだ。いいから食え」
疑惑と不満の表情を隠さないにさっさと同じ山からぶどうを摘みあげて押し付け、神田はもうひとつの山から自分の口へと放り込む。途端に今度は先ほどと真逆の表情を浮かべた子供たちに、女の笑い声はいっそう高くなり、アニタも堪えきれず声を上げて笑い出す。言葉は通じなくとも、言い合いをはじめた二人の言葉の内容の予測はたやすい。
敵討ちを託さなくてはならない相手と目の前の子供がどうしても一致しない。滲んだ涙を優雅に拭いながら、アニタは複雑な思いに眉尻を下げていた。
Fin.