朔夜のうさぎは夢を見る

おわりなんてなければ

 ブックマンは鍼術の達人であると同時に、その他いくつもの医療知識に長けていた。そして、教団においてラビが知る限りの最高齢であり、それはすなわち誰よりも深く長い経験を有していることを意味している。記録してきた歴史とはまた別の、ブックマンだけが持ちえる時間と引き換えにした貴重な財産は、それこそありとあらゆる局面において重宝される対象だった。
 背に当てた枕にもたれる形で力なく身体を起こす神田に最後の一本の鍼を打ち込み、翁はおもむろに両手を打ち鳴らした。鋭く響き渡る音に、うなだれていた頭がのろのろと持ち上がる。
「わしがわかるか?」
「――ブックマン」
 亡羊とした瞳が翁を映し出し、静かな問いに覇気のない声が返される。
「さよう。これからいくつか質問をするが、すべて正直に答えてほしい。記憶は正常か?」
 緩慢ながらも頷いたことを確認し、ブックマンは見据える瞳に力を篭める。
「お主、一体何を斬った?」
 問いは端的にして簡潔。容赦なく向けられた言葉に表情を歪める神田が、ラビには年齢不相応の幼さを露呈しているように見えた。


「アイツ、を。いや、違う。あれはアクマだ。アイツはいない」
 抑揚のない声で呟き、そしてはたりと瞬いてから神田は瞳を濁らせる。
「あれは、アクマだ。ヒトガタを模した悪性兵器。魂を繋ぎとめる呪縛。死者の絶望。生者の傲慢。伯爵の慈愛」
 そのまま紡がれるのは、呪詛にも似た言葉の羅列。最後に間を置いて「神の気まぐれ」と吐き捨てる声は、いっそ憎しみが篭められてすらいるようで、それまでの声と一線を画している。
 濁った泥沼のようだった双眸が、持ち上げることにさえ疲れたようにシーツへ落ちた。ただ静かに見つめる傍観者と、いまだ立ち位置の定まらない傍観者見習い。それぞれの視線の中心で、青年は散逸していた意識をゆるゆると編み上げていく。
「いないはずの存在を見たのか?」
「あれは影だ。ここではない場所にいるから、いるはずがない。アイツであるはずがない」
「いないことを知るものがいて、アクマを斬ったつもりがそれを斬ったと?」
「俺はアイツを斬ったりしない。俺たちは、互いに互いを害することは最後の選択だ」
 吐き出されたのは、問いかけへの答ではなく独白。成り立たない言葉の応酬に双眸を細め、ブックマンは細く息をつく。


 戯言のように繰り出される、深い意味を孕んでいるだろう音律。ラビはその向こうに見知らぬ少女を幻視し、神田を見つめる師の表情に憐憫と関心を読み取って僅かに瞠目する。
「それは幻覚で、戦場で見ていたものだ。わかるな? もう任務は完了した。ここは教団だ。アクマはいない」
 ふと声音を変え、慰める響きでブックマンは神田を諭す。長く共にいるラビでさえ滅多に聞いたことのない口調に、取り繕った気配はない。己の中の何かを辿るような表情で目を遠くし、ブックマンは続ける。
「目を覚ませ。それはあくまで夢に過ぎん。お主は何も誤ってなどいない」
 しかし、畳みかける翁の声は、唐突に響いた低い哄笑に遮られた。前触れなく弾けたそれは、持ち上げられた左右非対称に歪む美貌に、凄惨なまでの彩を加えていく。
『夢? 夢だって言うのか? あの顔も、目も悲鳴も! 血のにおいも! 肉を断つ感触も!! 俺は知っている!!』
 そして落とされたのは、しっかりと意思の伴われた声。皮肉に満ちた、すべてを蔑む絶対的な糾弾の嵐。
『俺は、アイツを殺したんだ――!!』
 迸る叫びはいつの間にか聞き慣れない言語になっていたが、いくつか拾うことのできた単語から、ラビは神田の母国語が現在の世界にとって非常にマイナーであることに、不謹慎にも感謝する。傍観者に徹するならば許されただろうが、徹しきれない、友人だとか仲間だという立場に縋りつつある自分に、その告白を聞く権利はないと感じたのだ。


 天地が震えるような慟哭をあげながら、神田は握り締めた両手を睨み据えていた。まるで、刀越しに知った感触をそこに見出しているかのような錯覚を覚え、ラビはぶるりと身震いする。
『それこそがアクマの見せた幻覚だ。目を覚ませ。お主は、こんなところで立ち止まるわけにはいかぬのだろう』
 神田に合わせてか、日本語に切り替えてなお淡々と響くブックマンの声と態度だけが、常と何も変わらない。それだけが、この異常事態が日常の延長上に起こっていることを静かに告げている。
「振り払え。惑わされるな。それは、本当にお主の知る存在なのか?」
 厳かな言葉は、天啓のごとく。繰り返された「振り払え」のひと言に、神田は両手に力を篭め、目をきつく瞑って何かに耐えている。ラビには茫漠としか察せない存在をあっさりと引き合いに出し、ブックマンは滔々と告げる。
「見誤るなよ。事実と可能性を混同するな。記憶と妄想を見極めよ。アクマの幻覚になど惑わされるな」
 声にぬくもりを滲ませ、ブックマンは目の前にある形のいい後頭部に手を置く。
「案ずるな。お主は決して弱くなどない。何も、誤りなどしておらぬ」


 幼子をあやす調子で二度頭を叩き、同じテンポでブックマンは容赦のない拳骨を神田の後頭部に叩き込んだ。鈍い音が静かな部屋に響くが、思わず壁にもたれかけさせていた身体を起こしたラビの目の前で、翁はいつもの声で淡々と口を開く。
「目は覚めたか?」
「……ああ」
 勢いでシーツに沈みかけた頭を持ち上げながら、青年は不機嫌さに掠れる声ではっきりと答えた。過ぎるほどゆっくりと向けられた双眸が鋭く剣呑な光を宿していることを確認し、手馴れた調子でブックマンは鍼を回収していく。
「自分が何をしていたか、覚えているか?」
 抗議の言葉を遮る絶妙のタイミングで問いかけられ、出鼻を挫かれた神田は眉間に皺を寄せたものの、おとなしく口を引き結んで記憶の海に潜った。


 年長者への敬意という感覚には大いに疑問を抱かざるをえないが、敬老という感覚は意外にしっかりしているのが神田のよくわからないところだとラビは常々思っている。
「眠れなくて、薬をもらったのは覚えている。部屋で飲んだはずなんだが?」
「用量を守らんから昏睡したのだ、馬鹿たれ」
 鍼の回収の邪魔にならないよう、身じろぎはしないまま、視線で部屋を見渡し、自分がこんな場所にいる理由がわからないとその仕草だけで雄弁に語った神田は、与えられた回答に目を剥く。
「五日間も眠りっぱなしだったんだぜ」
「冗談だろ?」
 壁から寝台へ歩み寄ったラビが追加すれば、唖然とした声が落とされる。それはあまりにもいつもの神田で、ラビは安堵と戸惑いに複雑に揺れる自分を知る。
 何を抱えている。何を隠している。何に耐えている。
 喉の奥に蟠る疑問は、おもむろに視線を向けてきた師に窘められるまでもなく胸の奥に追いやった。無理に問い質せば、神田との間に築き上げた関係性が崩れるだろうことは明白。それはラビの望むところでなかった。記録者として円滑な立場を保つためではなく、得がたい友人を失いたくないから。
 状況把握のためだろう、矢継ぎ早に繰り出される質問に答える役目を買ってでて、ブックマンはラビにコムイへの伝達を命じた。察しの良い師の指示をありがたく拝命し、ラビは素早く踵を返す。一刻も早く思考を冷却するための物理的距離をおかなければ、衝動のまま何かを踏み越えてしまう気がしたのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。