選べるだけの未来を
目を覚ました神田が最初に思ったことは、何故まだ生きているのだろう、というどうしようもない疑問だった。
奇妙に静かな世界に、ほんの一瞬、ここが死後の世界なのかとも思った。だが、だとすれば、軋み、引き攣れる感触の残る四肢が滑稽極まりない。死んでなお死ぬ前にかけた肉体への負荷を引きずるなど、一体どんな意味があるというのか。
ゆえに自分は生きている。たとえ、全身に負ったはずの傷を一切感じない状況が、どれほど現実離れしていようとも。
体が軋むのは、板張りの床に直接転がされていたためらしい。ゆっくりと上体を起こし、光の向こうを見透かせば明るい青空が見えた。日は既に、かなり高く昇っているようだ。次いで見やるのは反対側。向かって部屋の奥となる隣には、微かに寝息を立てて眠っている見慣れた少女がいる。
呼吸は安定しており、一見した限りでは目立った傷も負っていない。胸に湧いた安堵を神田が自覚するよりも先に、肺の底に溜まりこんでいた空気が細く長く吐き出されていった。
気休め程度にかけられていた上掛け代わりの衣を少女にかけてやり、神田は体に負荷がかかりすぎないよう気を配りながら立ち上がった。感触を確かめるように片足ずつ踏み出し、過ぎるほど丁寧な所作で床板の末端へ進む。
四方を壁で囲むこともできていないあまりに貧相な掘っ立て小屋かと思われたこの場所は、よくよく見れば覚えがある光景に囲まれている。しかし、先に続いているはずだった回廊は影も形もない。その向こうにあるはずだった集落もまた、同様に。
「気分はどうだい?」
感慨とも感傷とも言い知れぬ、胸の奥にわだかまる感情を持て余していたところに、気配なくかけられる声があった。全身が緊張と警戒に強張るが、もう遅い。気配は、振り返ることさえできずに硬直する少年の背中から数歩のところに佇んでいる。
「お前たちは本当に可愛げに欠けるね。拾った以上、私はお前たちを庇護する気でいるのだけど」
見知らぬ気配を警戒するのは正しいが、気を張りすぎれば疲れてしまうよ。呆れと感心をない交ぜにした声で呟きながら、気配の主は神田の右隣へとやってきた。
拾ったという言葉が真実なら、現時点で害されていない以上、過剰な警戒は意味がない。思いもよらなかった幸運な状況に、少年はほんの少しだけ肩から力を抜く。助けられた恩を仇で返す気はないのだ。ついと横目に見上げれば、人好きのする、しかしどこか浮世離れした笑みが静かに少年を見下ろしている。
「傷はもういいようだね」
「……アンタが手当てを?」
「ほとんどお前が自力で治したようなものだよ」
いぶかしむ気配を隠しもせず神田が問いかければ、笑みは曖昧な、申し訳なさそうな色を含むものへと変じる。自然治癒というにはあまりに不自然な早さで、あまりに綺麗に治りすぎていることは明白。緩んだ警戒心を引き締め直し、眼光を鋭くさせても相手は困ったように小首を傾げてはにかむばかり。
「詳しく話そう。ただ、調理をしながらだ。あまり上質なものは採れなかったが、何か食べた方がいい」
言って示された部屋の反対側には、確かにいくばくかの山菜と一羽のウサギが積んであった。
石を積んだだけの簡素なかまどに水を張った鍋をかけ、薪に火をつける。特に言及こそしなかったものの、すべて瓦礫の中から拾い集めてきたものだろう。小さく目を伏せ、胸の中で神田は喪われた命を弔う。
あなた方を振り払い、自分は前へ進む。悼みはするが悔いはせず、見届けはするが振り向かない。それこそが神田の貫く弔意であり誠意。
先ほどは気づかなかった、自分の寝かされていたすぐ脇に置いてあった刀を抱き込む形で、神田は床に腰掛けた。迷いなく選んだその場所は、かまどに向き合う影を観察し、眠る少女を背後に庇う位置。話を切り出す言葉を探して少年が沈黙する先、苦笑交じりの視線を一度投げかけただけの影は、慣れた調子でウサギを捌きながら先までと同じ音調で説明の口火を切る。
「お前の傷を癒したのは、その刀の力だよ」
「俺は、死んだものだと思ってた」
唐突に話がはじまったことにいささか面食らった神田だったが、それが聞きたかった内容であると覚るやすぐさま意識を切り替え、目覚めてはじめに抱いた疑問を投げ返す。
「死んだはずだった。だが生きている。それが、刀との契約による恩恵であり制約だ」
「……どういうことだ?」
歌うように紡がれる言葉は、単純でありながら肝心の部分をぼかしているようでひどくまだるっこしい。元々気の短い性質である神田が眉間にしわを寄せて声を低めれば、迷うように躊躇うように、影はひとつ深い呼吸を挟む。
「刀の力を借りて、命を代償に命を繋いでいる。――お前の命と刀とを繋ぐ契約を結んだんだ。散るはずだった命を堰き止め、お前の命をヒトの枠から外れたところに引き留めた」
食材を刻む手を止め、首から上だけを巡らせて影は厳かに告げた。
まっすぐに向けられる瞳は、凪いだ湖面のようにただ静か。およそ人の所業と思えないことをなしたと告げるその言葉に一片の偽りもないことを神田に確信させる、痛いほどに澄んだ光を湛えている。
耳にした単語の意味をひとつずつなぞり、噛み砕き、正しく把握して神田は表情に困惑を滲ませた。影が事実を語っただろうことは信じられたが、その内容は信じるか信じないかといった範疇に収まらない。だが、それが事実でしかないことは、今ここに生きている自身こそが証明している。
「もっとも、これはお前たちの元来の繋がりに私が手を加えた結果だからね。解くこともできる」
あの時、あの場で繋いだのは私の勝手だ。この先どうするかの決断は、お前が自身で下すといい。
視線を地に落として表情を殺す神田を淡々と見やって託宣のように言葉を繋ぎ、影は再び鍋へと向き直って手を動かしはじめた。
無駄なく食材を切り刻み、次々に鍋へと放り込む。そのたびに上がるぽちゃんというどこか間抜けな音を縫って、少年は微動だにしない背中に問いかける。
「あの化け物は、他にもいるのか?」
「いるな。今のこの国に、人間はほんの僅かにしか残っていないよ」
「あれに襲われずに暮らせる場所はあるか?」
「少なくともこの国には、もうありえないだろうね」
問う声も答える声も、単調にして淡白。それきり黙りこんで考え込む少年の気配を背に、影は最後の材料を鍋に放り込み、薪を動かして火加減の調整に入る。
ちょうどいい具合に空気が入ったのか、ごおっと音を立てて炎が揺らぐ。
「はじめから、戦う以外の選択肢なんかなかったのか」
薪に混じっていた脂がはじける音に、嗤い混じりの呟きが絡む。そのままの勢いで火が安定したことを確認し、影は腰を上げ、今度は体ごと少年へと振り返った。
「ひとつ確認しとく」
視線が自分の視線とかち合うのを待ってから、神田は静かに口を開く。
「施した契約ってのは、いたずらに命を喰う呪いじゃないんだな?」
「星宿を蝕むものではない。時間の削られ方が、徒人と違うだけだ。……答は急がないから、よく考えてからでいい。一度解いたら繋ぎ直すことはできないが、解くだけならいつでもできる」
そう付け加えるものの、澄んだ双眸に浮かぶ揺るぎ無く純粋な決意と覚悟は変わらない。その曇りのなさはかえって空恐ろしいほどであり、かほどの急展開を予測していなかった影は、知らず眉を顰める。
「ならなおのこと、慌てて解く必要はねぇな。」
しかし、忠告にも似た言葉になど聞く耳を持たず、何もかもを見透かしたような目で神田は影を睥睨する。
「ただの気まぐれや同情で俺たちを拾ったわけじゃないんだろ? 何か理由があるはずだ」
告げもしなければ会話の端に滲ませた覚えもない、胸の奥で燻る後ろめたさをまっすぐ看破され、影は目を見開く。しかし、その声に責める色は微塵もない。ただそうあるべきと受け入れた静けさは、少年が命ばかりか、魂の在り方まで人の枠を踏み越えたような錯覚を抱かせる。
「俺は死ぬはずで、死ぬわけにはいかなかった。その命を繋いでもらったことへの礼は、このぐらいしか思いつかねぇ。だから俺は、アンタの理由のために命を使う」
いつでも解けるってんなら、その後で解いてもらうさ。できるんだろ。
言ってするりと立ち上がり、くっと唇を歪めて浮かべられた笑みは不遜にして尊大。返答に詰まったままの影の肩越しに鍋を示して「噴きそうだぜ」と告げ、少年は未だ眠り続ける少女へと向き直ってからふと振り返る。
「助けてもらえたこと、感謝してる。――ありがとう」
刷かれた微笑みはたおやかにして穏やか。微塵も揺らがぬ瞳の色の深さは、胸に燻っていた幼子に酷な道を示したことへの悔悟を凌駕し、宿願の叶う日を影に透かし見せる強さを湛えていた。
Fin.