朔夜のうさぎは夢を見る

いつだって僕らは

 目を覚ましたアレンを待っていたのは、覚悟していた罵声や暴力ではなく、耳馴染んだ教団の喧騒だった。あまりの意外さについ先ほどまで自分が見ていたものを含め、すべてが夢だったのかとも考えてみる。しかし、それにしては全身の筋肉の引き攣れと、生々しく蘇る戦闘の感覚がおかしすぎる。
 溜め息を兼ねた深呼吸をひとつ。深く吸い込んだ息は、消毒薬のにおいに満ちている。金属の焦げるにおいと、血の香りに酷似した機械油のにおい。感じていたはずのそれらを孕んだ生ぬるい風はここにはない。代わりに、視界に映るのは白い清潔な天井であり、どす黒い煙の立ち上る青天ではない。
 状況の推測は容易に適う。つまり、庇われて、助けられて、ここまで運ばれたのだ。あの、誰よりも甘さと馴れ合いと妙な仲間意識とやらを毛嫌いする、冷徹を代名詞とした漆黒のエクソシストに。
 今度こそ遠慮なく深々と溜め息をつき、アレンは目を閉じた。なんだかんだといいながらも結局こうして自分を助けているのだから、彼とて相当甘い性格をしている。もっとも、そんなことを言おうものならそれこそ容赦なく斬りかかられるだろうし、何より彼は言葉に行動と結果が伴っている。多少の矛盾など、誤差のうちで片付けてしまうのだろう。
 対して自分はどうか。思い返すと同時に蘇ってきた情けなさに、これでは神田に罵られても嫌われても仕方ないかと、アレンはいつになく弱気な考えに駆られる。


 しばらく薄闇の中で自己嫌悪に陥っていたアレンは、小さな声で「やめよう」と呟いて身を起こした。全身に倦怠感は残っているものの、動かせないほどではない。そもそも、負った傷も重症とはいえない程度のものばかりだったのだ。軽く全身の関節を動かして状態を確認し、アレンは改めて周囲の気配を探る。
 真っ白いベッドとカーテンからして、ここは医療班室だろう。ならば、ベッドを出るには医療班員の許可が要る。食堂と医療班室は、教団で暮らす以上どんな立場の人間も逆らえない一種の聖域だ。食堂を敵に回せばすなわち日々の食事に影響が出るし、医療班室を敵に回せば前後不覚の折にどんな怪しい実験薬を盛られるかわかったものではない。よって、穏便に話を運ぶのが一番なのだ。
 ベッドの周囲を仕切るカーテンをそっと掻き分け、アレンは班員を探す。特に浮ついた空気がない以上、今はさほど忙しくないはず。さっさと状況説明を聞き、診察をしてもらった上でベッドを空けるのが最善だろう。
 行動を選択し、着衣の乱れを直してからカーテンの隙間をそっとすり抜けたアレンは、しかし、診療室に続くドアの前でぴくりと手を止める。多少の騒ぎがあっても病人や怪我人に障ることのないようにと、医療班室の防音設備は実は質が高い。その具体例とも言える防音加工の施された扉の向こうから、耳馴染んだ声が聞こえてきたのだ。


 声は切れ切れにしか聞こえず、しかも最低限の遣り取りだけで部屋を出て行ってしまったため、話の全容はわからなかった。それでも、よりにもよってあの彼が医療班室にわざわざ何かを要求しに来るという事例が珍しく、驚きを殺せないままアレンは扉を改めて開く。
「あ、目が覚めましたか?」
 扉の向こうには、白衣を着用した青年が立っていた。丁寧な所作で腰を折り、手近にあった椅子をアレンにすすめる。
「座ってください。傷はいいと思うんですけど、一応問診をする規則なので」
 にこにこと、人好きのする笑みを浮かべる青年に素直に従い、アレンは問診表への答を律儀に書き込んでいく相手が一段落するのを待って、疑問に思っていたことを問いかける。
「あの、僕はどのくらい寝ていたんですか?」
「こちらに運ばれてから四日目になりますよ」
「四日も……」
 それは、ある程度予測できていたとはいえ、素直に衝撃的な事実だった。青年も言っていたし、自分の自覚としても外傷はさほど重くなかった。だとすれば、敵から受けた精神的ダメージがそれだけ重かったということか。
「運んですぐに神田さんは次の任務だったので、詳しい話は聞けなかったんです。けど、精神的な消耗が激しいだろう、って言っていたので、正直なところ打つ手なしだったんですよ」
 にっこりと微笑み、青年は心底安堵した様子で続ける。
「本当に、目を覚ましてくれてよかったです」
 その笑みに偽りはなく、我がことのように喜んでくれる青年にアレンは素直に感謝したが、話の流れからふと思いついて問い返した内容に、今度は血相を変える。そして、病み上がりとはとても思えない勢いで廊下に飛び出していた。


 完全に回復していない体力では全力疾走といってもたかが知れている。その足を必死に動かしてようやく目的地に辿り着き、アレンは返り討ち覚悟で扉を力任せに叩きはじめた。
「神田! 僕です、アレンです!! 開けてください!!」
 しかし、普段ならば最初のひと言で「うるせぇ!!」の罵声つきでそれこそ蹴破らんばかりの勢いで開かれるだろう扉が、今日に限ってうんともすんとも言わない。そのことにさらに焦りの色を濃くしながら、アレンは扉を叩き続ける。
「開けてください! さもないと力ずくでぶち破りますよ。聞いてるんですか!?」
 叩きながら神経を凝らせば、確かに人がいる気配はある。いっそ安眠を妨害したという理由で斬りかかられたとしても、今のアレンならばそのことに安心できるだろう。ほとんど縋りつく勢いで声を張り上げ続けるその肩に、ぽんと置かれる誰かの手がある。
「アレン? どーしたんさ、こんなとこで」
 振り向いた先には、ふたつのカップを片手で器用にまとめ持つ次期ブックマンの丸く見開かれた瞳があった。


 やややつれ気味の様子からするに、ラビもまた任務が明けて間もないのだろう。それでもにっと吊り上げられた口の端はいつもどおりで、アレンは張り詰めていた何かがふつりと切れるのを感じる。
「アレン? アレンさーん?」
「ラビ、神田が……、神田がっ!!」
「何があったかは知らんけど、落ち着くさ」
 言葉に変換するのももどかしい思いの丈に声を詰まらせるアレンを、ラビは空いていた手でぽんぽんと頭を叩くことで落ち着かせる。
「ユウに居留守されてんのか? ようやく寝てくれたんならいいんだけど」
「どういうことですか?」
「ん、お互い説明は後回し。ちょっとこれ持っててな」
 ひとりごちながら扉へと目を向け、ラビは手の中のカップをアレンに預けた上でおもむろに取っ手に手をかける。案の定、きっちりかけられた鍵によって扉を開けることは適わなかったが、次期ブックマンは用意周到にもポケットの中からひとつの鍵を取り出す。
「ラビ、それは?」
「管理班に行って借りといたんだ。今回ばっかりはなるべく穏便にすませたいし、かといってユウのわがまま聞くわけにもいかんからさ」
 なるべく音を立てないよう気を配りながら、あっさりと解錠された扉をラビが開く。そのまま二人で気配を殺しながら室内をうかがえば、私物などないに等しい部屋の隅の寝台に蟠る闇がひとつ。熟睡している可能性を考慮してそっと距離を詰めた二人は、寝台脇の床に散らばるごみを見た瞬間、気配を殺すことを放棄して次の段階の行動に移っていた。


 診療室で医療班班長が戻ってくるのを待っていたラビの許に、コムイを伴ったアレンがそっとやってくる。
「どうだい?」
「診療待ち。でも、状況から察するに、過労と睡眠不足と薬の過剰摂取による昏睡だろうな」
 声をかけてきたコムイに淡々と返してから、ラビは小さく「悪ぃ」と呟いた。
「まずそうだなーってのは分かってたんだけど、まさかここまでとは思わなかった。先に報告しとくべきだったさ」
「いや、それで君が様子を見に行くのが遅れていたら、元も子もなかったからね。気にしなくていいよ」
 しゅんとうなだれる青年を宥めるように微笑んでから、コムイは先ほどからずっと深刻な表情を崩さないアレンにも声をかける。
「アレンくんも。君はさっき目を覚ましたばっかりなんだから、そんなに気に病まないの。このあと、どんなに辛くてもいろいろ説明してもらうんだから」
 だが、アレンは困ったように小さくはにかむだけで、その顔から暗さを払拭しようとはしない。それこそ困りきったコムイが小さく溜め息をつきかけたところで、病室から続く扉がぎぃと軋む音を立てた。
 医療班班長の見立ては、ラビの推測に精神耗弱と体力の低下を追加したものだった。
「処置が早くて的確だったから、まあ後遺症はないだろう。あとは本人次第だな」
 言葉遣いと技量が反比例したようなその有様はどこか神田を彷彿とさせたが、だからこそ疑う余地がない。とりあえず、一番の懸念のひとつを払拭され、待ちわびていた三人はそれぞれに息をつく。
「やつは馬鹿だが、この手の馬鹿をやらかすやつじゃない。極度の睡眠不足による軽い恐慌状態ってのだろうな。事と次第によっては投薬治療の必要もある。状況を話せ」
 厳かに告げる医者に促されて、まず口を開いたのはラビだった。


「ユウ、今回は合流したときからいつもよりずっとピリピリしてたんさ」
 任務の連続とか、そういう理由ではない。もっと別の、危うい感じの苛立ち。下手に刺激するのは得策ではないと判断し、今回ばかりはラビも、道中において無駄口や軽口を一切叩くことがなかったという。
「でも、それだけならまだしも、食事はほとんどしないし、眠ろうともしないし。いっくら体鍛えてても、飲まず食わず、寝ずに戦闘の連続じゃ、もたねえ。帰ってすぐに部屋には戻ったみたいだったけど、怪しいと思って追いかけたんさ」
「その結果が、これだった、と?」
「そーゆーこと」
 まとめたコムイに軽く頷き、ラビは溜め息交じりに天井を仰ぐ。
「眠れないんなら鍼打ってやろうか、ってじじいが言っても聞きゃしねえの。ありゃ眠れないってより、眠りたくないって感じだったな」
「眠りたくない……」
 観察者の言葉をぽつりと繰り返し、膝に乗せていた両手にぐっと力を篭めたアレンに、青年は静かな瞳を向ける。
「オレらの任務の前、ユウはアレンとの任務だったよな」
「事故のために大量発生したアクマの掃討任務だったね。そこで、何があったんだい?」
 それこそは、誰もが聞きたいと願っていること。事態の核心を握る少年は、集中する視線の中で一度きつく目を瞑り、それから生々しい記憶をそっと辿りはじめる。


 嫌な相手だったし、厄介な相手だった。レベルの上がったアクマが、純粋な戦闘力の向上と共に一見しただけでは判別できない能力を開花させることは知っていた。それでも、あそこまで翻弄されたのはその能力自体のせいというより、それによって惑わされた己の弱さのせいだ。
 あれは、厄介には厄介だったが、見破ることも理解することもたやすい能力だった。だというのに、理解しながらも翻弄され、ろくに反撃もできないまま傷を負わされ、戦場の片隅に転がされる荷物と成り果てた。
 日頃からアレンのことを甘いだのなんだのと評する彼の目に、あの時の自分はどれほど愚かしく映ったことだろう。何度となく空想の中で謝罪と言い訳を繰り返しても、行き着くのは己の情けなさに歯噛みする感情。本当に、今回ばかりは彼の言い分に対してひと言たりとて反論することは許されまい。
「いつもどおりの、アクマを破壊するだけの任務だったんです。レベル1が中心でしたし、数が多い以外に問題はないはずでした」
 喉が渇き、舌が口腔に貼りつく。それを無理矢理引き剥がして、アレンは掠れた声を絞り出す。
「ボクが、レベル2のアクマの能力に囚われて戦闘不能になり、神田が残りをひとりで片付けたんです」
 単独では捌ききれないからこそ二名のエクソシストが派遣されたというのに、戦いの半ば以後はすべてひとりの手に委ねてしまった。アレンには、神田がアレンと同じ攻撃を与えられたかどうかを正確に判断する術はない。それでも、状況から考えるに神田もアレンと同じ立場に追いやられたはずなのだ。
 ただ、アレンは生まれた隙を突かれて戦闘不能になり、神田は最後まで任務を全うした。それが結果だった。


 最も聞きたいだろう部分をはぐらかしたアレンは、注がれるもの言いたげな視線に応え、口を動かす。
「たぶん、幻覚を見せるとか、そういう能力だったんだと思います。――義父が、マナがいたんです。それで隙ができて、ボクは負傷して倒れました」
 それは、考えてみれば本当に情けない瞬間だった。もういないとわかっている、自分がこの手でその魂を捕らえ、解放した相手。だというのに、姿を見、声を聞いた瞬間に躊躇った。破壊するべき対象がそこにいるはずだとわかっていたのに、攻撃の手が止まったのだ。
 何ともいえない空気が漂うのを振り払うように、アレンは言葉を継ぐ。
「どの程度の範囲で影響が出ていたのかはわかりませんが、少なくとも、ボクには目に映る限りのアクマがマナに見えました。同時に囚われている魂も見えていたから、それが幻覚であることはボクこそが一番理解していたはずなのに、ボクは躊躇ったんです」
「じゃあ、神田くんは……」
「おそらく、ボクにとってのマナにあたる相手を、片っ端から斬って歩いたんだと思います」
 コムイの声に続けて推測を述べ、アレンは唇を噛む。
 斬られた幻影の義父たちは、みな凄絶な悲鳴と恨み言を声高に叫んでいた。解放される魂の姿よりも、そちらの方が衝撃だった。血を流し、肉が抉られ、骨が剥き出しになった義父。義父をそのような有様に変えた、表情ひとつ歪ませない闇を纏うエクソシスト。絡操を理解できるだけの思考回路が残っていなかったら、きっと自分は自分を庇って戦っている同僚に牙を剥いていただろうと、少年は冷静に思い返す。


 沈黙を破って溜め息をつき、口を開いたのは医療班班長だった。
「なるほど、そいつは夢見の悪いことだな」
 それで、睡眠薬か。納得の色合いの強い声には、ただ静かな哀切が滲んでいる。
「大方、眠ればその夢を見るもんだから眠れなくなって、でも眠らないと体がもたないことを分かっているから薬を飲もうと思いついて、飲んでも眠れないから量を増やした、ってとこか。とことん馬鹿だな」
「班長、この場合は、やっぱり投薬治療になるのかな?」
「睡眠薬か向精神薬か、微妙なとこだがな。効きが悪いのは今回ので実証済みだ。できれば使いたくない。カウンセリングに持ち込むのがセオリーなんだが」
「神田くんの場合、それは無理だろうしね」
 溜め息をついて顔を見合わせ、大人たちは年若い二人の知らない何かを見つめている。
「何とか自力で克服してもらうのを期待するしかないかな」
「やつならやってのけるだろうよ。それまでは、薬を欲しがれば与えるから、そのへん鑑みて多少任務は調整してやれ」
「うん、努力するよ」
 さっさと話をまとめあげ、大分前から部下を待たせていた医療班班長は席を外し、残ったコムイはアレンとラビに向き直る。


 彼らとて仲間として神田の強さは認めていたし、信頼もしていた。それでも、科学班室長と医療班班長がたった今見せたような信頼は持てずにいる。体感したアレンは、直接手を下さなかった自分でさえ何日も寝込むほどだったその衝撃を思って疑念に駆られていたし、体感してはいないものの、今まで見たことがないほどに追い詰められた様子を目の当たりにしたラビは、その様子を思って不安を覚えていた。
「心配なのは僕らも同じだけど、神田くん、周りが心配すればするほど、意地を張っちゃうから」
 複雑な視線を受けて苦笑を浮かべたコムイは、二人のエクソシストたちに偽らざる実情と内情を吐露する。
「僕らにできることは、さっき話していたことが精一杯なんだ。だから、君たちには君たちにできることをお願いしたい。同じ場所に立っている君たちだからこそわかること、できること。きっと、たくさんあると思うんだ」
 エクソシストは神の使徒。だからこそと特別視をするわけではないが、ゆえにこその境界線がどうしても存在するのは認めざるをえない事実。それを越えることのできないコムイには、越えた向こうにいる彼らに託さざるをえないことが山のようにある。
「神田くんには内緒だよ、怒られちゃうからね。でも、お願いだ。彼を、助けてあげて欲しい」
 真摯な声は、泣き出したいのを堪えるような瞳の揺らぎに乗って、すとんと胸の奥まで届く。
 苦しむ誰かがいるなら助けてあげたいのに、手の届くところにいる相手一人、助けることが叶わない。それで世界を救うだなど、一体どれほどの大言壮語なのか。自責し、自嘲し、しかしそれは傲慢な悲嘆だと自重するコムイに、アレンとラビも唇を噛む。力なさに己を呪う気持ちは、きっと誰もが抱くもの。
 そんな暇があったら前に進めと、過ぎるほど乱暴に後ろから蹴り飛ばしてくれる相手が眠っていることが、今ほど哀しいことはなかった。図らずも同時に同じ壁へと視線をやった二人のエクソシストは、奇妙に歪む不器用な笑みを交わすことしかできなかった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。