朔夜のうさぎは夢を見る

あの日の夢を見た

 目を開けたら、まず彼を見たかった。
 無事な姿を見られれば最高だったが、生きていてくれるなら少しぐらい怪我をしていても安心できると知っていた。怪我をしていてもいいし、目一杯怒鳴られてもよかった。眉間の皺とどすのきいた低い声は覚悟してある。妙なところで男女の差を気にかけるから、手を上げられることはないだろうけど、そうなっても仕方がない。はじめに約束を破ったのは、自分なのだから。
 つらつらと考えながら、神経を凝らして気配を探る。遠く感じるのは人が蠢く気配。自分以外の存在を感じていられるのが、これほど幸せなことだとは思わなかった。独りではない。そう確信できることがこれほど得がたい幸福だと、知っていたのに忘れていたのだ。


 薄目を開ければ、眩い世界に蒼黒の双眸が突き刺さる。ぱちぱちと瞬きを繰り返すことで、薄闇から光の中に放り出されて悲鳴を上げる視神経を宥める。
「目の届かないところには行くなって、言っただろ」
 うまく取り込む光の量を調整できない少女を見かねたのか、大きな手が目元を覆い、「少し閉じてからもっかい開けろ」と促してくる。おとなしく従ったというのに、鼓膜は文句を拾う。
「見送ったやつが出迎えないってどういうことだよ」
 どかされた手につられて瞼を押し上げれば、先ほどよりよほどましになった世界が広がった。今度は、不機嫌そうに寄せられた柳眉と、くっきり深い眉間の皺が見える。
 不機嫌と、怒りと、不安と、安堵と、そして絶望。最後に見たよりもずっと精悍になった顔立ちには、最後に見たよりもずっと複雑さと哀しみを深めた表情が掘り込まれている。ああ、あなたは私の知らない時間の間に、一体どれだけの悲嘆を抱え込んだというのか。
「次は、なしだ」
 与えられたのは、厳しい青年の不器用な赦し。その声はらしくなく掠れて揺れていたが、滲む感情は様々な思いに飽和している心では読み取ることができなかった。ただ、頷いた途端に目尻から零れた喜びと安堵と幸福によって生み出された筈の涙には、謝恩と悲哀と懺悔が混ざっていた。


 溶け合っていた世界が自分という異物を弾き出し、急に追い出された自分はそっと触れる体温を知った。全身の、すべての感覚という感覚が粟立つ錯覚を覚えた。溢れる感慨はあまりに深すぎて、言葉に置き換えることさえできなかった。
 戻ってきた。無事だった。彼がいる。違うけど同じ気配。記憶よりずっと硬く強張った指の感触。強くなったことがまざまざと感じられる。張り詰め、研ぎ澄まされた清冽な空気は凛と心地良い。渦巻く思考が行き着くのは、ひとつの答。ついに、あるべき場所に戻ってきた。
 刮目せよ、世界。そしてありがとう、世界。
 彼がいる。それを知るだけで、狂おしいほどにお前が愛おしい。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。