朔夜のうさぎは夢を見る

嘘つきの優しさ

 修練場に響くのは、高く澄んだ二つの声。重なり合うそれらは裂帛と気合を篭めた鋭い呼気であり、共に空を切り裂くのは拳やら足やらの移動する音。
 ひらひらと舞うように、しかし演舞というにはあまりにも殺伐とした手足の遣り取りは、長い黒髪を側頭部で二つに結った少女の手刀が、同じく長い黒髪を背で緩やかに括った少女の首筋にひたりと当てられたところで自然消滅した。
 どちらからともなく構えを解き、一歩退いて互いに礼。発される音は異なるものの、紡がれる言葉の意味は「ありがとうございました」と同じもの。そして持ち上げられた視線が絡み合い、二人はそれまでの緊迫感をまるで感じさせない華やかな笑みを交し合う。


「やっぱりリナリーは鍛え方が違うのね。敵わないわ」
「それはまあ、エクソシストだし。でも、そういうもかなりのものよ?」
 現役エクソシストと、たとえ模擬演武とはいえそこそこに渡り合えるというのだから。そう付け足して勝者が素直な賞賛を送れば、敗者の顔には嬉しさと困惑を混ぜ込んだ曖昧な微笑が浮かぶ。修練場から引き上げ、二人が並んでいる場所は教団内に設けられた女性用のシャワー室。東洋出身の二人にとって湯にじっくり浸かって疲れを取ることもまた魅力的ではあったが、時間帯が中途半端なため、今は汗を軽く流すのみで合意したのだ。
 並んでざっと湯を浴び、仄かに色づいた肌をやわらかなタオルで拭きあげる。腕に、足に、うっすらと走るのは筋肉の筋。年頃の少女らしいやわらかな肌を覆うのは、命がけの戦場を生きている証。それがほんの少しだけ切なくて、はぼんやりと眺めやっていたリナリーから視線を外し、己の腕を見やる。リナリーには及ばないものの、故国にいた頃より確実に硬く引き締まった身体。否応なく追い込まれた場所でがむしゃらに生き抜くことを考え続けた、その結果。
 回想はたやすく思考を侵し、時間を奪う。いつの間にか動きを止めていたは、そっと伺うように呼びかける声にはっと瞬きを繰り返し、慌ててタオルを置いて着替えへと手を伸ばす。
「大丈夫? 無理させちゃったかしら?」
「そんなことないわ」
 覗き込むリナリーは既に着替え終えており、手早く着衣を身につけて、は微笑みを返す。
「ただ、敵わないなあ、と思ったの」
 そう、まるで敵わない。まるで届かない。
 エクソシストは、神に選ばれし使徒。その存在の、何と遠いことか。


 ただでさえ女性の比率が圧倒的に低い教団において、リナリーとは互いが唯一の同年代かつ同性の存在だった。出会ってからさほどの時間が経っていないといえ、そうなれば二人の距離が近づくのはもはや必然であり、重度の過保護と心配ぶりを発揮するコムイの太鼓判つきで親しい友人同士になるのはあっという間のことだった。
 たとえそれがどんなに他愛のないことでも、異性や年長の人間と分かち合うのと、同世代で同性の人間の分かち合うのではだいぶ色味が違う。誰の目にも微笑ましく映る自然な引力に引かれるように、時間の空いた折には談話室で他愛のないお喋りに花を咲かせるのがいつの間にか二人のやり方となっていた。
 どちらかが誘うでもなく、ただ自然と足がそこへ向き、なんとなく、空いていた窓際のソファに並んで腰を落ち着かせる。どんなにくだらない話でも、他の誰かにしてしまった話でも、そこで紅茶と茶菓子を片手に話し合えば、また別格の、きらきらしたものに変わる。
 そして、今日の話題は先ほどの会話の続きであるらしかった。
「でも、やっぱりはすごいわよ」
 重苦しくはない、ごく自然な沈黙。それを破ったのはリナリーで、ぱちりと瞬いてからが視線で先を促せば、湿った髪を結い上げるのは億劫だったのか、背にさらりと流したままの黒髪が揺れて続ける。
「イノセンスの適合者だったなら、きっとものすごく優秀なエクソシストになれるのに」
 残念だわ。そう呟く少女の横顔はとても純真で、己が信頼を寄せる相手がなぜ自分の傍にいてくれないのかと、素直な落胆が見え隠れしていた。
「そうね。エクソシストになれたなら、私も戦場に出られたのに」
 応じてこぼした吐息には願いを絡めて。は瞳の奥に僅かな痛みを走らせる。


 神が自分のことを選んでくれたなら。そうしたら、自分はこの身もこの魂も、すべてをあなたに差し出して、あなたのための優秀な手駒になる。きっと彼は誰よりも強く誰よりも誇り高く、戦場を駆け抜けるから。だから、その彼の少しでも近くに、少しでも長くいられるように、自分は誰よりも貪欲に強さを求める自信があるのに。
 嘆こうが願おうが、詮無いこととわかっている。ただ、終わることを知らない渇望を、それでも抱くことをやめようとは思えないだけだ。
 知らず、声にはどうやら思いが随分と滲んでいたらしい。伺うような気遣うような空気を醸し出す心やさしい友人に、は「でも、どうしようもないわね。私は適合者ではないから」と明るく諦めの口上を述べてみる。
 そう、どうしようもないことなのだ。人の身ではどうすることもできない、それは宿命。好きで適合者になったわけではないリナリーも、好きで適合者になれなかったわけではないも、どうすることもできない。
 湿っぽい空気にするつもりはなかったが、あっさりとした諦めの言葉だけではリナリーの心を浮上させるには足りなかったらしい。思うところが色々とあるのだろう。沈んだ表情を浮かべる横顔は美しかったが、そんな表情をさせるのは本意ではなくて、はどうしたものかと眉根を寄せる。同年代の、同性の友人ははじめてなのだと笑ってくれる、あの花のような笑みこそがリナリーには似合うのに。


「ねえ、お願い。そんなに悲しい顔をしないで。私は今、リナリーとこうして過ごせる時間がとても嬉しいの。確かに私はエクソシストにはなれなかったけれど、これからもそうとは限らないし、それに、リナリーの友達であることに変わりはないわ」
 考えて、考えて。そして行き着くのはいつも同じ結論。胸の奥が微かに軋むが、それをやり過ごすことにあまりにも慣れすぎてしまった。ただ目の前の笑顔をどうしても取り戻したくて、甘く残酷な嘘をつく。
「私は、リナリーのホームの一部にはなれないかしら?」
 それは、未来を確約するという嘘。甘美な願い。甘美な誘惑。
 一度外に出たなら、絶対の帰還を保証されることのないエクソシスト。それゆえに、リナリーはのついた嘘に気づかない。のつく嘘は、側面を変えて、リナリーのつく嘘だから。
 紡ぐ声はしっとりと穏やか。悲しみを押し殺した優しい笑みを向けられながら、は胸の奥で己を嗤う。まるで聖書の一節を読み上げるかのように嘘を紡ぐ自分は、なるほど、神の使徒にはなれようはずもないのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。