朔夜のうさぎは夢を見る

八十八夜に摘んだ茶は、不老長寿の縁起物

 邸をふわりと覆う、甘いような、香ばしいような、なんともいえぬ芳香に知盛はついと首を巡らせる。
「なにごとだ?」
 ともすればひとり言にすぎなかっただろう呟きは、絡げた御簾の向こうに控えていた家長によって掬いあげられる。
「実は――」
 告げられたのは、半ば予想通りだが半ば予想外の、もはや邸のものにとっては馴染み深いとさえ言えるだろう一人の娘の珍妙な行動。そのまま放置しておいてもよかったのだが、漂う芳香はあまりにも興味深い。
 目の前の書物に飽いてきたからと腰を上げるのを額づいて待ちうける家長の口許が笑っていることなど、知盛には見えなくてもお見通しであるし、不快にも感じない。この邸において、すべてはもはやすっかり馴染みきったことなのである。


 上機嫌にふんふんと何ごとかを唄いながら、娘は芳香の中心に立っていた。音律はある程度の規則性を持って繰り返されているが、始まりも終わりも、知盛にはわからない。きっと、彼女だけが知る、遠い遠い記憶の一端。
 半端な時間帯であるがゆえか、娘によって追い出されたのか。台盤所には他に人影はなく、娘はいつになく気楽な様子でかまどに向き合っている。
 かまどに火がくべられているのは見えていた。よって、たたきに置かれていた草履を拝借して娘の脇に寄ってから、手元を覗きこみつつ知盛にとっては本日二度目となる問いを投げかける。
「なにごとだ?」
「きゃっ!?」
 どうやら、上機嫌極まりない娘は知盛の気配になどまったく気づいていなかったらしい。目を円く見開き、作業の手を止めて悲鳴を上げつつ勢い良く首を巡らせてきた表情を憮然と見返し、腹の底で修練の追加を検討しつつ、知盛はまず、目先の安全を優先する。
「火から目を離すな」
「あ、はい」
 自分の目の前で、自分のせいで、自分の邸に火の不始末などあっては、笑えない。促しに従ってすぐさまかまどに向きなおった娘が作業の手をゆるゆると動かしはじめるのを見ながら、同じ問いを、もう一度。
「で、なにごとだ?」
「茶を、煎っておりました」
 折が良かったのか悪かったのか。どうやら火を使う作業はもう終わりだったらしい。釜の中を大きくぐるりとかき回してから手早く火を消すと、娘は芳香の元となっていたものをすぐ脇に用意してあった籠にせっせと広げはじめた。


「これが、茶なのか?」
「大陸のものとは異なるかもしれませんが、海を渡ったものよりも、こうして煎ったばかりのものの方が香りもよろしいかと」
 香りにつられて、先ほどから幾人も、こちらに顔を見せてくださるのですよ。そう言って得意げに笑い、娘は籠の中身を摘まんでくるりと振り返ってきた。
 ずいと指を突きだすその仕草の意味するところは、受け取れということだろう。素直に手を差し伸べればそこにぱらりと茶葉を乗せ、まるで手本を見せるように、自分はまた新たに摘まんだ茶葉を口に放り込む。
「いかがです?」
「……悪くない」
 まるで幼子を相手取るような態度に思うところがなかったと言えば嘘になるが、好奇心には敵わない。倣って口に放り込んだ草からは、先ほどから邸を漂っていた香りがふわりと広がる。
 どこでこの葉を手に入れたのか、どうして煎れば香りが立つことを知っているのか、なぜこの娘が自らかまどに向き合っていたのか。問いただしたいことは山ほどあったが、さっさと作業に戻った娘の心は、ひたすらに目の前の青葉に向いている。
「………終えたら、俺の曹司に来いよ」
 何かいろいろなものを妥協しながら踵を返し、振り向いてくる気配には後ろ手を振りながら台盤所に背を向ける。堪え切れず深々と吐き出した溜め息が実にかぐわしいのも、好ましいのにもどかしい。
「家長」
「は。実は――」
 廊を歩きながら呟くように名を呼べば、心得た乳母子は知盛の知りえなかった、知りたかった情報を滔々と紡ぎ上げる。しかし、それらの情報と娘の思惑の本質とが異なるものであることを、知盛も家長も知っている。もうしばらくして、知盛の待ち構える曹司でやっとその真の目的が明かされることもまた、この邸ではすっかり馴染んだいつもの光景なのである。

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