朔夜のうさぎは夢を見る

せり湯は冷え性対策に

 季節が春めいたことで冬の道具を片づけてしまった。それでも、初夏にはまだまだ遠いこの頃では、時折、思い出したように冬のような寒さが降ってくる。
 寒い、寒いと訴える主のために必死に住環境を整えた冬のあれこれも、片付けてしまった今ではまったく役に立たない。
 薬湯を用立て、時に過剰なほどに衣を重ね、なんとかかんとか花冷えを凌いでいるが、体の芯が冷えるのでは意味がないのだ。
 昼になってもろくにぬくもりを感じられなかった一日が終わり、夕闇に追い立てられながらしばし考えた娘が持ち出したのは、見覚えのある大きな桶がひとつ。


「こちらに、おいでくださいな」
 冬の間に、娘と桶との組み合わせには慣れたのだろう。ちらと視線を流し、心得たように階までやってきた知盛は、しかし娘の手許を見て小首をかしげる。
「今度は、なんだ?」
「せっかく、春になりましたので」
 桶の中には、仄かに湯気の立つ湯と共に、何やら布袋が浮かべられている。
「何が入っているか、おわかりになりますか?」
 くすくすと笑いながら、娘は上機嫌に湯の温度を指先で確かめる。
 問いかけられても、知盛には見当もつかない。青い香りがするから、恐らくは草葉の類が入れられているのだろうということはわかる。だが、それまでだ。
「薬草か?」
「当たらずも遠からず、といったところでしょうか」


 日常の常識から雅事から、何においても知盛は娘より造詣が深い自信がある。だが、薬草だの病の対処だのとなると例外だ。
 娘には、養われた寺で培った知識と経験があり、それは知盛が身につけてこなかった類のもの。歩んできた日々の違いによる知識と経験の違いを自覚して振る舞う娘に対し、知盛も同じく、娘の持つ知識と経験を尊重することにしている。
「夕餉にもご用意していますので、その折に、ご説明をいたします」
 なのでどうぞ、今はこの香りをお楽しみくださいな。促されるまま瞼を下ろしてゆるりと深呼吸をすれば、確かに春を思い起こさせる香りに包まれるようで、知盛は小さく唇を弓ならせた。

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