朔夜のうさぎは夢を見る

願う瑕

 襲いくる猛烈な虚無感に、日番谷は耐えかねていた。
『いかがした?』
「退屈なんだよ」
 腹の底から響いてきた声は、己にしか聞こえていない。それを知っていればこそ、返す声はごく小さくひそめておいた。これ以上厄介ごとを増やしても、退屈さが助長されるだけで現状打破には結びつかない。悲しいかな、懸命にもそう察するだけの聡明さを、日番谷は十二分に持ち合わせていた。
 幾度目かも忘れた溜め息が唇をすりぬける。どうしたものかと思ってみても、どうにもならないとしか答えられない。口の中でだけ「つまんねえ」とごち、日番谷は教壇に立つ教師へと視線を流した。ちょうど、説明に一区切りがついたところのようだった。
「――っ!」
 特に何かを意識したわけでもない仕草が、どうやら教師の神経を妙に刺激したらしい。目があった途端に教室内に無駄によく響いた息を飲む音に続き、羞恥にか怒りにか、真っ赤に染まった鋭い眼光が少年に向けられる。
 だが、それに連なる目立った動きは何もなかった。
 悔しそうに恨めしそうに、教師は日番谷をねめつけてから、苦行に耐えるかのような表情を浮かべて視線を引き剥がす。そして、授業を再開した。


 ようやく終業を告げる鐘が鳴り、週番の号令に合わせて形式ばった挨拶をすます。生徒たちが顔を上げると同時に室内を満たしたざわめきから逃れるように、教師はさっさと教室から出て行った。戸を潜り抜ける寸前に、日番谷をじろりと一瞥することを忘れずに。
「お前、今度は何したんだ?」
「別に」
 興味深げに聞いてくる隣席の男にぼそりと返して、日番谷は椅子に座り込む。特にこれといって、問題を起こした覚えはない。何か特別な答えを期待されていることはよくよくわかったが、それが事実だった。
 他に言うことはないとばかりに顔を外へ向ければ、男は実につまらなそうな目で日番谷をしばらく眺めた後、やがて別の友人の元へと立ち去っていく。
 入学後、教師に恩着せがましく聞かされた話により、日番谷は己の特例としての入学年齢とそれを認めざるを得なかった力の強大さとを自覚させられた。本人の知らなかったその情報は周囲にとっては既知のことだったらしく、日番谷は入学試験時からして、格好の晒し者であり続けたのだ。
 あずかり知らぬところで買うものは羨望が僅かと嫉みが山ほど。そこには、いわれのない誹謗と中傷とが必ず付随していた。前評判と目立つことこの上ない容姿、おまけに嘘のような好成績と来れば、お膳立ては完璧だ。
 容貌が衆目に曝されるは当然であり、物珍しさから注目が集まるのは自然の摂理。
 御しきれぬ霊圧が漏れ出すは致し方なく、その存在感に注目が集まるのは当然の因果。
 さらにいくらかの出来事が日番谷の才能と実力とを雄弁に語り、辿り着いたのは、覆すことの出来ない周囲からの隔絶に閉じ込められ、もがくことさえ出来ずにいる現状だった。


 ざわざわと、休憩時間特有の喧騒が日番谷を包み込む。実体を伴わない他愛のない音の塊は、教室中のそこかしこで生み出されては宙に投げ出される。なのに、日番谷の周囲だけは静寂に満たされている。それが常だった。
「俺が、何したってんだよ」
『才持つことは、それだけで益となり疫となる』
 誰にともなく呟いた声には、返す言葉があった。淡々とした物言いは落ち着き払っており、さすがに永の時を生きたというべきなのか、妙な説得力と威厳とを持っていた。
 天賦の才があり、努力を惜しまぬ性状があり、磨かれれば眩しすぎるほどの輝きを放つ実力がある。
 特進学級に所属するというだけでは満たされない学習意欲は、日番谷に独学とそれによる周囲からのさらなる逸脱をもたらした。特にひけらかす気もない日番谷の成長に気づいたものはなかったが、先日はじめて行なわれた鬼道の実習授業の折、あまりに威力の強すぎる一撃を放ったのが運の尽きだった。
 その日を境に、珍獣を取り巻くようだった日番谷への隔絶が、猛獣を取り巻くそれへと変容したのだ。
『小石と宝玉とは、元来相容れぬもの』
 揶揄の色合いをもって諭す声に、日番谷は溜め息を堪えきれない。自分の持つ能力を客観的に捉える度量があればこそ、その喩えを取り違えることも否定することもなかった。それでも、思うことはある。
「目立ちたいわけじゃねえんだけど」
『諦めろ』
 笑い含みに告げる声は、それとも、と言葉を続ける。
『これ以上の逸脱を厭うなら、我との修練は取りやめるか?』
 手にしたこの絶大な力の具現たる己を、みすみす手放すことを望むのか。
 決して否との応えがないことを知っている、どこか意地の悪い声音だった。


 友とは呼べないのだろうが、知り合いがいないわけではない。学級の中でも殊更出来のいい部類の人間は、日番谷のことをちょうどいい好敵手として認識しているようだった。斬撃においては木刀を交えることで磨きあい、鬼道においては霊圧の制御の仕方を評価しあい、その他諸々、あらゆる知識において議論をすることもあった。それは程よい緊張感に満たされた心地よい関係であり、日番谷は彼らを大切に思っている。
 ただ、それだけなのだ。
 一日の拘束時間が終了し、筆記具やらを片付ける視界の隅に、日番谷は決して己に当てはまらない光景が展開するのを見るともなしに見やる。
 共に帰ろうと誘い合ったり、教師への愚痴を言い合ったりして、誰かしらと集いあうのは日番谷以外の院生たち。
 同じ目線に立ち、誰かと世界を共有しあって過ごす他愛のない時間に、日番谷は縁がなかった。
『諦めろ』
 低く静かに、声が響く。
『お前と対等の位置に立つものは、ここではなく、先にいる』
 狭い世界に囚われるなと、声は日番谷の見据える道を照らす。
『お前は進むために、我の力を欲したのだろう』
「わかりきったことを言うなよ」
 望みが大きいならば、欲が深いならば。そこに必要とされる犠牲と覚悟もまた、生半可なものではない。それは、声の主が徹底的に日番谷に叩き込む教えのひとつ。
 微かに口の端を吊り上げて悠然と笑みを刻み、日番谷はさらりと返した。
「心配すんな。今さら退く気はねえ」


 廊下に溢れる人ごみを抜け、日番谷は学院の裏手にある雑木林へと向かう。授業の野外実習に主に用いられるそこは、放課後ともなれば人の気配はない。本来は許可なく立ち入ることはできないが、自主鍛錬にちょうどいいので、こっそり潜り込むことにしていたのだ。張り巡らされている結界の解き方と張り直し方は、独学で習得済みである。
 一回生である己が斬魄刀を持ち、あまつさえその名を知っているということがどれほど非常識なことであるかぐらいは知っている。包む袱紗の長さはあからさまに不自然だが、木刀だと言い張ってしまえばそれ以上の詰問はされないからよしとした。
 誰かにばれたところで、決して咎められることではない。だが、これ以上いたずらに目立つことは避けたかった。それは、日番谷からのなけなしの抵抗の形。
 自覚のない抵抗の本質たる欲求を知る斬魄刀は、この件に関しては沈黙を選ぶ。本人が把握しきれぬ心をいくら指摘して説こうとも、自ら納得し覚悟を得ない限りは意味がない。
 乗り越えられるか、呑み込まれるか。
 使い手と認めた初めての死神の行く末を、時に教え諭し、時に黙し見守り、氷輪丸はただ受け入れようと思う。


 瑕持たぬがゆえに光る珠玉は、瑕持つがゆえに集う瓦礫に恋焦がれるもの。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。