朔夜のうさぎは夢を見る

虚像の幻影

「見張っていていただきたいのです」
「……はあ」
 にこにこと、穏やかな笑顔の裏にそれだけではないのだろう不可視の迫力を滲ませたその人は、あくまであたたかな口調でそう言った。
「無茶をなさる方ですので、しっかりと」
 山田花太郎の話によれば、四番隊は救護専門で戦闘力が低く、他の隊、特に戦闘集団である十一番隊からは大いにこけにされているという話だった。が、それは一般隊員のみなのではないかと、話し手たる卯の花烈に対峙して、黒埼一護はしみじみと考える。霊圧の察知など決して得意ではないが、彼女の身に纏うものは、たとえ十一番隊の隊員とはいえ、侮れる程度のものだとは到底思えなかったのだ。
――やっぱ、隊長・副隊長格は別格ってことか。
 瀞霊廷に侵入する際に夜一に言い聞かされたことの意味を、今になってようやく理解しはじめる己は運が良かったのだと、黒崎は思う。卍解修得にまで至り、阿散井恋次にとどまらず朽木白夜をも退けた。だが、やはり彼ら隊長格は別だ。
 火事場の馬鹿力。
 その言葉にしっくり当てはまっただろう先日までの己を思い出し、改めて強運と現在の平和とに感謝する。そんなのどかな空気の流れる一室を共にすることになったのは、見るからに幼い少年だった。


 井上織姫の能力のお陰で傷はほとんど綺麗に癒えていたが、黒崎の怪我は完全回復には至っていなかった。ちょうど近くに居合わせた卯の花が、「最後の仕上げは自然治癒がいい」と助言を送ったためだ。
 尸魂界の住人と現世の住人と、体の機能に関して果たして同じ感覚でいていいのか細かいことはわからなかったが、尸魂界の医療関係者の頂に君臨する彼女の言葉にはおとなしく従うことにした。そのため、体力の回復の意味も含め、黒崎は四番隊舎でもある総合救護詰所に一室をあてがわれていたのだ。
 黒崎に比べて傷の浅かった阿散井は、今朝まで同室で休んでいたのだが、朝一番に慌ただしく出て行ってしまった。ただでさえ指揮系統が混乱し、指揮者を一気に欠いた護廷十三隊において、彼のような動ける上位席官は貴重だったのだろう。そのあたりの大人の事情とやらが汲めないほど、黒崎は愚かではない。
 頑張れよと一声かけて、その後はおとなしく窓の外を眺めたりして過ごしていたのだ。つい先刻、卯の花がやってくるまでは。


 寝台脇に点滴の器具やらを設置していた隊員が作業を終えたのを確認して、卯の花はようやく事情の説明らしきものを付け加える。
「看護に隊員を回したいのですが、あいにくいまは猫の手も借りたいほどの忙しなさ。あとから事情を知ればきっと恐縮なさるでしょうし、できれば人手を割きたくないのが本音です」
「つまり俺は、こいつが眼を覚ましても無茶しないように見張ってればいいんスね?」
「ええ、お願いします」
 眼を覚まされたら、適当に人を捉まえて私に知らせてくださいね。そうにこりと微笑んで、慈母のような女死神は黒崎の返事は待たずに羽織を翻す。黒崎の承諾の意を告げる声が宙に霧散するのと、彼女が肩越しに振り返って笑みを残すのとは、図られたかのような絶妙なタイミングで重なっていた。



 手土産だと言って残された冊子は、めくったページのどこもかしこも難解な漢字で埋め尽くされているのを見たとたん、読む気が失せた。
 ありがとうございます、でもすみませんごめんなさい。声に出さずに紡いだ言葉に謝罪文句の割合が高いのは、どことない後ろめたさを覚えたからだ。脇にある小さな台にそっと冊子を置き、視線は流れで隣の寝台に眠る少年へと向かう。
 下級死神が持つ斬魄刀は、名を持たぬ浅打ちだと斬月が言っていた。だが、見るからに異様な威圧感を放つおそらく彼のものだろう斬魄刀に名がないだなどと、到底黒埼には思えなかった。
 冊子の代わりに長剣が鎮座する同じ作りの台に、黒崎は少年が上位の死神であろうことを察する。
「こんな小せえ癖に」
 年の頃は、己の妹たちと同じくらいだろうか。見かけだけで判断してはいけないとルキアに学びはしたが、初対面の相手の年齢は視覚情報から推測するしかない。小さな体で長大な斬魄刀を振るい、彼もまたこの騒ぎに巻き込まれて奮闘したのだろう。
 同じ瀞霊廷の死神に傷つけられたのか、それとも自分たちがルキアを探し回る際に傷つけたのか、はたまたまったく別の理由による傷なのか。眠る少年からその真相を聞くことは出来ないが、ただ、早く良くなればいいのにと黒崎は願う。
 あまりに多くの心が傷つきすぎた騒乱の終焉に、この小さな少年の命が消えるなどというおまけはいらない。


 うっかり感傷的なことを考えてしまえば、思考の渦は一気に回想へとなだれ込む。思うところは山ほどあったし、派生して色々なことが気になってくる。斑目一角はもう元気になっただろうか、とか、朽木の姓を持つ二人の間のわだかまりはもう大丈夫だろうか、とか。
 寝台を下りる許可をもらったら、訪ねたい相手はたくさんいる。それは、この世界とここの住人とを黒崎が好きになってしまった証拠だ。
「――っ?」
 小さなうめき声が鼓膜を突き破り、とりとめのない思考は破綻する。逸れていた視線を戻した先には、眉間にしわを寄せ、右手でぎこちなく何かを探る幼い死神。
「おい?」
 眼を覚ましたのか。ならば卯の花を呼ぶべきか。判断を迷ってそっと近づいてみれば、少年は薄目を開けて首を巡らせ、緩慢な動きながらも斬魄刀の柄をしっかと握り締める。関節が白くなるほどの力で握られた斬魄刀は小刻みに震え、台の天板にあたってカタカタと耳障りな音を立てる。
「も、も……」
「おい、大丈夫か?」
 掠れていて聞き取りづらかったが、それは確かに少年の声だった。どこか尋常ではない様子に思わず声をかけ、誰かいないかと廊下に足を向けた黒崎の背後で、寝台の軋む音がする。


 反射的に振り返って駆け寄り、思いのほかしっかりした動きを見せる少年の体を抑えれば、ちょうど良く通りかかったらしい死神が「どうしました?」と声をかけてくれた。
「卯の花さん呼んでくれ! 早く!!」
「はいっ!」
 一瞥しただけで状況を理解したのか、死神はあっという間に廊下を駆け抜けていった。遠ざかる足音を聞きながら、黒崎は腕の中でもがく少年を寝台に寝かしつける。なるほど、起きて早々にこのような無茶を働く性格と知っていれば、見張りをつけたいと考えた卯の花の気持ちも良くわかるというもの。
「おい、お前。まだ動くなよ」
「……ひなもり?」
 一刻も早く彼女が訪れてくれることをと祈る黒崎の腕の中で、不意にぴたりと動きを止めた少年は、ぐっと眉間にしわを寄せ、誰かの名を呼び唇を噛み締める。今度はどうしたのかとそっと覗き込む黒崎のことなど眼中にないのか、少年は視線をどこか遠くに飛ばしながら、じっと周囲の気配でも探っているかのようだった。
 しばしの時を挟み、卯の花が静やかにそれでも素早く部屋に現れるころには、少年は黒崎が抑え込むまでもなく、おとなしく寝台に座り込んでいた。凄絶さと静謐さに包まれた子供は、すぐ傍にいる黒崎になど意識を向けない。声をかけることはおろか身じろぐことさえ憚られる空気の中、黒崎は卯の花に指摘されるまでただただ、その場に立ち尽くしていた。


 怒りと悔悟とそして痛みに彩られた瞳が見つめる先を、せめていまは知りたくなどなかった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。