朔夜のうさぎは夢を見る

慈雨は来ませり

 それは、梅には遅く桃には早い、人事異動があるにしては実に微妙な時期だった。
 隊主試験への立会いは、隊長職にしか認められていない。たとえ自隊の隊長が決定するか否かの渦中にあっても、副隊長たる松本に、試験会場への立ち入りは許されなかった。喰えない笑みを湛える幼馴染ともいえるだろう三番隊長からそれとなく聞いた話によれば、文句なしの合格だったという。注目度も高く、三番、五番、七番、八番、九番、十三番の計六名の隊長と山本総隊長の目の前で、十番隊の新隊長は十分にその実力を見せつけ、隊長の証である羽織を勝ち取ったそうだ。
 末恐ろしい子やね。最後にそう言った三番隊長は、新しいおもちゃを見つけた幼子のような、実に愉しげな笑みを浮かべていた。


 任官式が終わり、次々と出てきた各隊の隊長と共に、松本と同じく先ほどまで側臣室で控えていた副隊長たちはそれぞれの隊舎へと戻っていった。残るは己の隊の隊長だけだが、待てど暮らせど一向に現れる気配がない。
 どうしたものかと思案を巡らせることしばし。目の前でぎいと音を立て、待ち焦がれていた観音開きの扉が重苦しく開かれた。敷居をまたいだところで室内に向かい一礼を送り、丁寧に扉を閉める。そうしてようやく振り仰いできた少年は、そこにいる松本を当然のように一瞥し、素っ気無く口を開いた。
「待たせて悪かったな」
「日番谷、隊長」
 知ってはいた。噂も聞いていた。十年前、学院からの正規の卒業を待たずに一番隊第七席へと引き抜かれた不世出の天才児。先ほどの隊主会をもって隊長就任最年少記録を大幅に更新した実力の持ち主。
 正当な手順を踏んで羽織を勝ち取ったその力を疑う気はなかったし、どんな相手だろうと、忠実に仕え良い副官であろうと心に硬く決めていた。それでも、あまりに幼いその外観に、松本は声が上擦るのを止められない。
 顔をあわせたらまず、自己紹介をして、簡単な挨拶をしようと思っていた。そのために何度も練習したし、表情だって完璧に作れるようにしてきた。なのに、すべてが崩されていく。
 隊主試験に合格したといっても、既に辞令が下されていたとしても、それでも――。
 こんな子供に、自分たちは命を預けるというのか。


 名を呼んだきり沈黙を保つ松本に何を思ったのか、少年はくるりと踵を返すと、「ついて来い」とだけ言いおいてさっさと歩き出してしまった。慌てて後を追った松本がどこに行くのか問うても、同じ言葉を繰り返すだけで足が止まることはない。それどころか徐々に速さを増していった歩みはいつしか駆け足となり、そしてついには瞬歩の連用になっていた。
 ざんっ、と小気味のいい音を立てて日番谷が降り立ったのは、瀞霊廷の外れにある旧市街地の一角。小高い丘に位置するそこからは、廷内が広く見渡せる。悠然と眼下の光景を見渡していた日番谷は、己からしばし遅れて背後に響いた足音にちらりと視線を流し、まくしたてられる口上に耳を傾ける。
「一体どういうおつもりですか! いきなりこんなところまでいらして……。隊舎では隊員たちが、隊長のお越しをお待ちしているんですよ!?」
「隊舎にならさっき地獄蝶を飛ばした。俺もお前も、今日は戻らんだろう、と」
 すべらかに紡がれるのは当然の疑問と当然の諫言。すべては予想通りであり、先手は打ってある。あっさりと切り返せば、松本は信じられないといった表情を隠しもせずに眼を剥いていた。
「受け取れ」
 そんな様子など気にするつもりもないのか、ずっと松本に背を向けていた日番谷が振り返りざまに投げてよこしたのは一振りの刀。鞘に収められていたそれを危なげなく受け取り、松本は柳眉を寄せる。
「浅打ち、ですよね?」
「おう」
 頷く日番谷の手にも、見れば同じものが握られていた。たすきのようなもので背負っていた自らの斬魄刀を器用に片手で外し、少し離れた地面に置いてから日番谷は改めて松本を振り仰ぐ。
「俺にはこんぐらいしか思いつかなかったが、何にもしねえよりはマシだろ」
「何をなさるおつもりですか?」
「お前からの隊主試験」
 いぶかしむ松本にけろりと言い放った日番谷は、あろうことかその場で羽織を脱ぎ去り、丁寧に折りたたんで斬魄刀の脇に付け加えた。


 言われた言葉の意味は理解できたが、どうしても感覚がついてこない。置かれた状況を冷静に捉えようとすればするほど、その非常識さに頭痛を覚え、松本は混乱の渦にどんどんはまっていく。
「書類業務に関してはお前に教えを乞わねえとならねえことが大半だろうから、今は見逃してくれよ」
 勝負の方法はどうする。やっぱり、一本勝負でいいか。
 一人で勝手に話を進める日番谷に、松本は無意識に両目を眇めた。
 目の前の少年がやろうとしていることは、なんとなく察しがついてきた。隊長である証の羽織を脱いだその立場は一介の死神であり、斬魄刀を帯刀していない松本に合わせて、同じ浅打ち同士で勝負をしようと言っているのだろう。だが、その真意が松本には読めない。一体何のために、何を思ってそんなことをしたがっているのか。
「私はあなたの副官です。隊長に刃を向けることなど、出来るわけがありません」
 とにかく、名もない斬魄刀とはいえ、隊長格同士の真剣を用いての勝負など、認められるわけがない。ありきたりでありながらもっともこの場に相応しいだろう理屈をかざして事を納めようとした松本に、日番谷はまたもあっさりととんでもない一言を投げつけてきた。
「お前、俺のこと自分とこの隊長として認めてねえだろ」
 あまりにも当然といった口調だったため、松本は咄嗟の反応を返すことが出来なかった。


「俺みたいなガキが隊の頭に座るのが、不安なんだろう?」
 呆然と言葉を失った目の前の女に、日番谷は遠慮せず文言を紡いでいく。どれほど綺麗ごとを並べようと、表面を取り繕おうと、先ほどの反応でその本心は明白だ。要するに、指摘は図星だったのだろう。
「理解は出来ても納得が行かない。そんなところか」
「そんなことは――」
「お前さっき、思いっきりそういう目で俺のこと見てたぞ」
 ようやく返された言葉に続くのは、きっとありふれた言い訳だ。そんなものに日番谷は興味などなく、松本の言葉を皆まで聞かずに両断する。口にしたのは推測ではなく確信だったから、心の篭もらぬ即座の否定を返されなかったのが心地良いと、そう思った。だから、少しだけ声音を和らげて続ける。
「まあ、そう思うのは理解できる」
 俺がお前の立場なら、速攻異議を申し立てて、もしかしたら異動願いとか出すかも知れねえし。からかうでもなく揶揄するでもなく淡々と、日番谷は言葉を紡ぐ。
 外観の印象だけで実力やら何やらを決め付けられるのは悔しいことこの上ない。だが、それが事実だ。誰だって、年端も行かぬ子供のなりをした相手に、無条件に命を預けたくなどないだろう。
「それでも、その不安を抱いていいのは三席以下の隊員だ。お前には許されねえ」
 妙に老成して飄々とした空気を振りまいていた声の表情を一転させ、きっぱりと言いおかれた言葉は、底知れぬ威圧感をもって松本の身に圧し掛かってきた。
「お前はこの三十余年、十番隊の要だった。そのお前が俺を疑って、他の隊員が俺を信じるか? 隊長を信じられねえで、隊が機能するか?」
 びりびりと襲いくる圧倒的な霊圧は、まさに目の前の少年が羽織を纏うに相応しいことを、松本の本能的な部分に刻み込む。その視線は自分を見上げるものなのに、絶対的な高みから睥睨されているような錯覚に陥り、松本は軽く瞠目する。


 ひとつため息をこぼす音が聞こえ、一帯を支配していた重苦しい霊圧が一気に薙ぎ払われた。日番谷が、その身から迸っていた霊力を収めたのだ。
「俺は全力を尽くす。だが、副隊長のお前の信頼があまりに薄いままはじめたら、うまくいくもんも崩れちまうと思う」
 隊長と副隊長の信頼関係が脆い隊は、すぐにでも崩壊してしまう。隊を取り仕切る立場にある二職は、隊の要であり柱なのだ。
 出会ってすぐに深い信頼関係を築けるとは思っていない。露骨に嫌な顔をされても、見掛けから実力をなめられても、耐えていけばいずれ何とかできると思っていた。だが、上辺を取り繕い、腹の底に疑心を押し隠された状態ではじめられてはどうにもならない。それでは、日番谷がこの先いつまで経っても松本を信じられない。そして、遠からず十番隊が崩れるという結果を招くのだ。
 そんな馬鹿げた事態だけは避けねばならなかった。本人の意図的なものでないとはいえ、おそらく八割方自分に原因があるだろう不和の種は、責任を持って取り除いておかねばならない。それこそが十番隊長としての初任務だと、日番谷は腹に据えていた。
「うまいやり方じゃねえってことはわかってる。でも、これが一番納得しやすいだろう?」
 対面時にいずれの反応をとられたにせよ、少しでも納得してもらって、少しでも認めてもらって、少しでも良い形ではじめたかった。だから、強引とは知りつつも最もわかりやすい実力の測り方だろうと、浅打ちでの勝負を思い立ち、隊主会後に総隊長に直談判してきたのだ。
 不機嫌さもあからさまに眉間にしわを寄せじっと見上げてくる翡翠の双眸を、松本は真っ直ぐに見つめ返す。
「申し訳ありませんでした」
 そして、おもむろにその場に膝をつき、地に額を擦り付けて深々と土下座の姿勢をとった。


 突然の行動に呆れたのか慌てたのか、日番谷の反応は松本の声が空中に霧散してから優に二呼吸はおいた後だった。
「……おい」
「何なりとご処分を」
「お前、俺のことおちょくってんのか?」
「とんでもありません」
「とにかく、顔上げろ」
 神妙に応じる松本に、日番谷はため息ひとつで皮肉めいた物言いは打ち切った。
 命じられるがままに上げた松本の視線の先には、本日最高の不機嫌な表情を浮かべた幼い顔立ちがある。
「やり方が気に食わなかったのか?」
「違います。副官としてあるまじき行動をとったので、謝罪しているんです」
 何を考えていたのか。松本は、自分の行動を省みて底知れぬ後悔と羞恥心とに襲われていた。
 前職の隊長が戦闘時の怪我を理由に退いて以来、十番隊は隊長を擁せずにいた。年功序列によって埋まる地位ではない。最低限にして絶対の条件を満たす人材が現れず、鬱々とすること三十余年。隊員たちはもちろんだが、副隊長としてずっと隊をまとめていた松本こそが、もっともその空位を痛感し、そして新たな隊長を希求していたのだ。
 人なりになぞ、わがままは言わない。ただ、隊には隊長が必要なのだ。
 その座を埋めてくれる存在が現れたなら、今度こそ、どんなことがあっても喪うような事態だけは避けなくてはならないと思っていた。そのための副隊長職であり、その覚悟をもって今回の日番谷の就任を迎えたはずだった。それなのに、外見を見ただけであっさりと覚悟が乱され、あまつさえそれを日番谷本人に見抜かれていたとは。
 未熟な己が、松本はたまらなく恥ずかしかった。


 正座の状態を保っているため、視線は仁王立つ日番谷の方がわずかに高い。じっとその奥を見透かそうとでもするかのように松本の瞳を見つめていた日番谷は、ゆっくりと口を開いた。
「今の発言は、お前が俺のことを上官として認めたゆえのものだと受け取るぞ?」
「えっ?」
 鼓膜に響いた言葉の内容はあまりに予想外で、思わず返した声は素っ頓狂なものだった。
「なんだよ。違うのか?」
「あ、いえ。もちろん、隊長は隊長です! でも、そうじゃなくて」
「どっちなんだよ」
 難しげな表情は、眉間のしわがわずかに薄らいだだけで随分と印象が変わる。先ほどほんの少し和らいだ瞳は若干薄い色を刷いていたのに、今はまた鋭く濃い緑翠になり、飲み込まれてしまいそうだった。実に雄弁な色彩を持つものだと、松本は頭の隅でぼんやり考える。
「まだ納得してねえんなら、さっさと試合でも何でもやろうぜ。それすらどうしても嫌だってんなら総隊長に異動を掛け合ってやってもいいが、引継ぎとか終わってからだから、最低でも一月以上は我慢してもらうぞ」
 ぽんぽんと飛び出してくる言葉に澱みはなく、注がれる視線に揺らぎはない。偽りなく向けられるすべてが胸に響いて、松本はじわりと胸の奥から染み出してくる思いを知る。この隊長は強く、しかしまだ若く、それを支えられるのはきっと己に他ならないのだ、と。
 改めて背筋を伸ばし、松本はしっかと目の前の人物を見据えた。
 背も低く、体のつくりは華奢で、顔立ちも幼い小さな存在。それでも、漲るのは圧倒的に甚大な霊力であり存在感。垣間見えるのは強い意思と覚悟。そして、不器用で実直なやさしさだ。


 なぜ疑ったのだろう。知ろうともせずに、見極めようともせずに、なぜ決め付けたのだろう。渦巻くのは悔悟と羞恥と、感謝の心だ。疑った己を、おそらくは今まで嫌になるほど向けられてきただろう偏見の視線をもって対峙した己を受け入れ、同じ位置に立ち、その人となりとを推し量る機会を設けてくれたことへの底なしの感謝と敬服。
「日番谷隊長」
 この人には敵わない。ごく短い時間だけで、そう松本に思わせるだけのものを日番谷は持っていた。実力にとどまらぬその懐の深さ。いったいこれ以上、何を求めようとしていたのか。松本は縋る思いで願いを紡ぐ。ここまでの自分の愚行を受け入れてくれたのなら、もう少しだけ、わがままを聞いてもらえないだろうか。
「私に、副官を勤めさせていただけますか?」
 呼びかけを受け、つられて姿勢を正して神妙な表情を浮かべていた日番谷は、松本の言葉にぱちりと瞬いた。呼ぶ声は対面時と違ってしっかりしたものだったのに、続けた言葉は震えて掠れて、みっともないものになってしまった。しわになることも厭わず膝に置いた両手で袴を握り締め、松本は日番谷の言葉を待つ。
「これから、よろしく頼む」
 悠然と、しかし折り目正しく腰を折ってから、日番谷は顔を上げて小さく笑んだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
 深々と地に頭をつけ、松本は込み上げるものを押し殺した。声の震えは最高潮で、聞き取りにくいだろうなと他人事のように考える。


「それじゃあ、隊舎に行くぞ」
 終業時刻は過ぎてるが、いるやつだけにでも、顔見せとかねえとな。軽い足音に混じって聞こえる声に、日番谷がゆるりと移動していることを知る。慌てて目元を拭い、腰を上げかけたところで松本は日番谷の動きを静止した。
「隊長、ちょっと待ってください!」
「あ?」
 いぶかしげな声を上げて振り向きながらも素直に手を止めてくれた日番谷に駆け寄り、松本はその手の中から羽織を取り上げる。
「どうぞ」
 どうする気だと顰められた眉には応えず、松本は受け取った羽織から土と草を払い、丁寧に広げて日番谷の背に回った。小首を傾げてそれを見やった後、日番谷は得心のいったように眉間のしわを消し、袖を通して几帳面に襟を整える松本を見下ろす。
「ありがとう」
「はい」
 作業を終えた松本が立ち上がるのを待ち、少年は礼を述べて小さく会釈を送る。それに短く応じるのを横目で見やると、日番谷は羽織を翻して足を踏み出した。
「行くぞ、松本」
「はい!」
 呼ばれる声が耳に心地よい。前に立つ背中が目に心地よい。
 この人の一歩後ろこそは己の立ち位置であり、この人の命じる声こそは己の従う声である。理屈から作ったものでもなく建前から無理に納得しようとしたものでもなく、自然と湧き出した覚悟を改めて胸に刻み、松本は日番谷の後を追う。


Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。