冷たい瞳で月を見上げた夜を貴方は知らなくていい
修練場と人垣とラビからの呼び出し。この三つが揃った状況をすなわち嫌な予感と読み替えたアレンを責める存在は、きっと存在しないだろう。引越し準備に奔走する雑務だらけの毎日は、実に平和だ。平和すぎて、うっかり退屈のあまり、鬱憤晴らしのネタを探してしまうほどに。
人込みをすり抜けて目的地に辿り着けば、悲しいかな、どうにもデジャビュを感じる光景が目の前に展開されている。違うのは、対峙する人影の種類。あの時とは比べ物にならないほど重苦しい殺気に満ちて向き合うのは、銀色の客人と、蒼黒色のエクソシスト。
「おーい、アレン! こっちこっち!!」
なんだかとってもデジャビュ。うっかり遠い目になりながら距離を詰め、そういえばギャラリーの面子も少し違うなと記憶を辿っていたからだろうか。気を取り直して向き直り、ラビに投げかけるセリフが脳内で何かと重なり合う。
「どういうことですか?」
無論、ブックマン・ジュニアがこの程度の期間の記憶を葬り去っている道理はなく、にぃっと楽しげな笑みをかたどり、与えられた答えはいつかのそれに酷似して。
「模擬戦闘。偉大なる先人にちょっと稽古をつけてもらいたいって、ユウが」
普段ならばすかさず飛んでくるはずの「俺のファースト・ネームを呼ぶんじゃねぇよッ!」との怒号がないのは、きっとかの剣士が既に相手に集中しているからだ。
純然たる殺気。清廉なる殺気。それからいったいどう称せばいいだろう。低く重く冷たい気配は、不思議なほどに澄み切っていた。アクマやノアとの戦いでは感じたことのない気配。けれどこれは殺気だと、アレンの全身全霊が叫んでいる。
互いに手にしているのは竹刀が一振りずつ。切っ先を体側に流して、ゆったりと構える姿からはこれほどの殺気など想像もできないのに。
「……来ないのか?」
いつしかしんと静まり返っていた修練場に、ぽつりと落とされたのは呟き。そしてざりっという砂利を蹴る音と、竹刀を打ち合う激しい打撃音。
「ならば、こちらから行くぜ?」
「手出ししてから言うセリフじゃねぇよッ!!」
じゃれているかのようなかけあいは、けれど満ち満ちる殺気と容赦のない竹刀の交錯がことごとく裏切る。実に楽しそうに笑いながら、銀色の客人はエクソシストに猛攻を仕掛けている。
悔しいが、認めよう。シンクロ率うんぬんの話ではなく、神田は強い。自分ではまだ追いつけない何かを彼は既に手にしていると、そのことさえ認められないほど、アレンは子供でありたくなかった。
彼は強い。エクソシストとしても、純粋に剣術を扱うものとしても。それはこのたびイノセンスの形状が変わったことをきっかけに手合わせをしていて改めて思ったことだし、戦場で背を預けている中で感じていたことだ。だというのに、たとえこれが竹刀での手合わせだという要素を差し引いても、あの客人は強い。
「さすが、見事なもんじゃ」
素直に感心した様子で感想を紡ぐのはブックマン。その声に体の硬直を解かれて、そっと巡らせた視野に映るのはそれぞれの驚愕。コムイも、リナリーも、ラビでさえ驚いたように魅入るようにしてこの模擬戦闘に集中している。そしてわずかに様子を異にする、二つの夜闇。
見入るには見入っている。じっと、食い入るように。だが、そこに滲む気配が違う。
片方はコムイ達と同じく、彼らの剣技に魅せられるように。しかし片方は、もっと貪欲に、まるで喰らい尽くすかのように。
最後に竹刀を手にしていたのは神田だった。だが、勝ったのではなく勝たされたのだろう。取り巻くギャラリーにそれを見抜いたものがどれほどいるかはわからなかったが、少なくともアレンにはわかった。そして、それが彼らのエクソシストへの尊崇と信奉度を増させるための、パフォーマンスであったのだろうということも。
眦をきっと吊り上げながらも、ギャラリーが捌けるのを待つだけの理性は残されていたらしい。飛ばされてしまっていた竹刀を、いつの間にやら場を離れていたらしい娘が手にして戻ってくる。その彼女が置いていったのだろうタオルで軽く汗を拭い、水筒から水を呷り、男はどこまでも飄々としていて。
「どういう――」
「もっと、利用することを覚えろ」
激情を薄皮一枚の向こう側に無理矢理に押し込めた声で問いただす神田の言葉を、見かけの雰囲気とは程遠い重さで、男は容赦なく断ち切った。
「綺麗ごとなぞ求めるな。確かに、お前達が磨くべき第一は武の腕だろう。だが、それだけでは足りん」
そこに立っていたのは、絶対的な支配者だった。覚えのある感覚だと思い、アレンが至った記憶は快楽のノアとの対峙。己を支配者と知って在る、揺るぐことなぞ夢にも思わぬ存在感。
「夢に溺れる奴らに現実を突きつけないのなら、その夢には隙を持たせるな」
なのに男は、ふと微笑む。口の端をそっと吊り上げ、眦をそっと和ませる。
「腕も、筋も良い。……その眼も、実に好ましい。阿鼻叫喚の只中を、己が欲望に従ってまっすぐに駆け抜けられる、したたかな瞳だ」
「……何が言いたい」
「よく似た目を持つ男を、知っていてな」
くすくすと鳴らされた喉が、その場に満ちていた支配力を霧散させた。呑まれていたのだと自覚してそっと呼吸を整えるアレンには、男が何を視て、何を思っているのかなどわからない。
「俺で良いのなら、修練の相手ぐらいは務めよう。相手取るのは人ばかりだったが、実戦の経験は少なくもない」
「だから、何が言いてぇんだよ!?」
「道を、貫きたいんだろう?」
はぐらかすばかりの抽象的な物言いに焦れたらしい神田の怒号をさらりと受け流して、与えられたのはさらによくわからない答え。だというのに、神田には思い当たる節があったらしい。はっと目を見開き、深紫の瞳を凝視する。
「うたかたの夢だとしても、利用価値があるのなら、利用すればいいさ。そういう利用の仕方なら、お前も不得手ではあるまい?」
宥めるように、諭すように、導くように。声も言葉も、すべてがブックマンのそれを連想させると、アレンはそう思った。自分達では決して追いつけない、絶対的な何かの蓄積。この人は一体どれだけの喪失をかいくぐってここにいるのだろう。
「身勝手な贖罪の仕方だな?」
しかし、ついで返された神田の声は、アレンの感慨とは真逆を向いたものだった。
「俺を身代わりに見立てるんじゃなくて、よく似てるってヤツ本人にやってやれよ」
「刃を通じて相手を知るは、お互い様、と?」
「さぁな」
謎めいた言葉に獰猛に噛みつき、神田は凄艶に笑う。
「人となりを知りたいだけだったんだけどな。思った以上の収穫だ」
そしてアレンの隣からは溜め息の二重唱。漆黒のエクソシストは苦しげに。漆黒の客人はかなしげに。
「ありがたく、利用させてもらうぜ?」
思わず相手へと視線を流してしまったらしい漆黒のエクソシストとは対照的に、あれほどの冷徹さと貪欲さで剣戟を見つめていた客人の娘は、実に優雅に振り返って銀色の客人とまったく同じタイミングで、同じ種類の切なげで愛しげな微笑を浮かべてみせた。
Fin.