路地裏で永久を誓うキスを
特に何の感慨を抱いた様子もなく、いつもの通り隣に戻ってきた娘に、男は小さく喉を鳴らした。
「どうかしましたか?」
「いや」
肌に馴染まない衣服は、これでなかなか身動きがしやすい。そういえば、年下の“義兄”も初めて出会った時にはこのような意匠の衣を纏っていたか。いったいどの時期に文化が変遷するのかなど知りもしないが、何事も一長一短だと素直に認められるほどには、男はこの衣装を気に入っていた。
同じく身動きのしやすさで言えば、たとえば唐裳衣を纏うことを思えばこちらの方が格段に上だろう。娘の動きはいつも以上に軽やかで、なるほど彼女はこういった装いの方が身に馴染んでいるのだと察するのはたやすい。たやすいのはまあ構わないのだが、いかんせん、男にとっては不愉快な要素も大きい。
「ここの衣は、なかなかに目の毒だと……そう、思ってな」
言ってあからさまにじっとりと娘の体をなぞる視線を投げてやれば、とたんに真っ赤に頬が染まる。
「裾が長いだけでは不十分と?」
「俺は、別に構わんのだが」
そう、別に構いはしない。自分が目の保養を得る分には一向に。しかし、それで周囲の男どももまた目の保養を得るとなれば、不愉快以外の何ものでもないだけのことで。
まあ、遠からず去ることを確信している世界。多少の我慢はつきものかと、ほんの少しだけ妥協もしてみる。無論、ぎろりと周囲を睨み据えることも忘れはしないが。
「して、いかがだった?」
「何事もなく」
何を言うでもなく男の作業内容を見てとり、そっと加わる姿はとても手慣れている。見るほどに思い知らされるのが、実は男は好きではない。自分と共に在ったあの世界よりも、この見知らぬ世界の方が、お前には近しいのか。それがどうしようもない八つ当たりであり、かつてならば抱くこともなかっただろう不安であることを自覚すればこそ、なおのこと。
「神との契約は、ひとつで十分ということなのでしょう」
「幾重にも結ぶのは、あまりに危険な賭けだと思うが?」
「希望だそうですよ」
少なくとも、ここの人々にとっては。さらりと男の皮肉に応じて、娘は視線を手元に固定したまま寂しげな笑みを刷く。
「徒人では立ち向かうことのできない敵を倒すための、唯一無二の希望。世界の命運は、エクソシストに託されている」
呼吸のためか、ため息のためか、それともなんらの感慨を呑みこんだのか。ひとつ息を吐いて、続けられる声は小さく潜められて。
「いびつなことと、そう、思います」
同意の言葉が男の唇を割ることは、なかった。
「この世界を埋めているのは、絶望か?」
ふらりと石畳の廻廊を歩み、行き着いた先には案の定、目的の人物が一人でたたずんでいた。
「この塔を築くひとつひとつの石は、お前達の怨念」
舞台を踏みならす要領で足を運べば、想像通り、ひどく硬質な音が沈黙を埋め尽くす。怨念を踏み躙り、怨念に反響するのは世界を睥睨し、嗤笑する靴音。
「自ら望んで絶望に身を躍らせてそこを安寧の在り処となすなど、俺には到底なしえない芸当だな」
「……好きで、踏み込んでいるわけじゃないよ」
薄闇にぼんやりと浮かぶだけだった人影が、ふいに点った灯りによって明瞭に輪郭を得る。便利なものだと思うが、無粋なこととも思う。闇は闇であるからこそ恐ろしく、優しく慈悲深いというのに。
「ただ、他に選択肢がないんだ」
「そうか?」
惑うように嘯かれた言葉を、男は冷やかに両断する。
「要不要を定めるも、選び取る道を定めるも、すべては人の業。世界は何も押しつけはせぬ。神は何も定めはせぬ」
己が選択から、そうして逃げるばかり。ゆえにここには絶望と怨嗟が籠っている。犯した罪のすべてから、ただ「仕方ない」の一言で逃げたからこそ。
男がいつになく饒舌であることを判じられる人間が同席していなかったのは、さて、幸か不幸か。しかし男の常を知らないコムイは、突きつけられた言葉に喘ぐだけで手いっぱい。
がらんどうだった空間に、そしてゆらと姿を現したのは淡く発光する巨大な人影。
「そのぐらいに、してやっては、もらえないか?」
「お前が、運命の選定者とやらか?」
「そのような、大それたものでは、ないが」
言葉を失ってきつく地面を睨み据えるコムイをよそに、ヘブラスカは惑いながらも腕を伸べる。
「たとえ、どれほど馬鹿げていようと……私達には、他に、縋る希望がわからない」
「己が内ではない場所に希望を見出したいのなら、それ相応の対価が必要だろう?」
伸べられた腕の意味など知らないだろうに、男は誘うように手を差し返し、ヘブラスカによる選定を受け入れる。結末の行く末を祈るような眼差しで見守るコムイとヘブラスカの眼前で、すべての結論を知っているかのような醒めた表情で。
神の結晶は結局、男のような不遜な使い手を選びはしなかった。何事もないまま床に下ろされて、複雑な表情で己を見やっているコムイへと男は視線を流す。
「受け入れろ」
放ったのは、かつて男が、男の知り得た神から与えられた天の言葉。
「きっかけが何であれ、既に重なった過去は消えない。なれば受け入れ、そしてその中で足掻くしかない」
「僕達には、覚悟が足りないって?」
「お前の眼には覚悟があるが、足らぬ烏合の衆があればこそ、ここはかくも中途半端な絶望に満たされているのだろう?」
言ってくつりと嗤い、男は迷うことなく足を踏み出す。
「我らは還る。それは定められた未来だ。なぜなら、我らはかの世界において潮を生む大海の一滴であると、知っていればこそ」
特異な存在でないからと、動くことをやめて何になる。たとえ焼け石に水だとしても、動けばそれは、波紋を呼ぶ可能性となるのに。
「役の違いが存することは、俺とて知っている。真に、他に選択肢がないのなら、せめてはその選択肢を守ってやれ」
より深く、より強く。お前達が押しつける希望の重さと、せめては同等となるほどには。言い放つ男にそんなことはわかっているとコムイが返せなかったのは、深紫の瞳の奥に、今の自分では追いつけないほどの絶望にそびえる覚悟を垣間見たからだった。
Fin.