朔夜のうさぎは夢を見る

僕はどうしてここに居る

 なんとも物騒で可愛げの足りない迷子に居場所を提供することになったのは、その不可解さゆえに。何度となくこの世の条理に当てはまらないような奇怪に接してきてはいるが、この不可思議は中でも群を抜いているだろうというのがコムイの偽らざる感想だ。
「室長殿。少々、よろしいですか?」
 どれほどの時間を無為にしたのか。ぼんやりととりとめのない思考に潜っていたため、目の前にかざしていた書類は一枚もめくられることなくそのまま。けれど、動かずにいた手のおかげで、どうやら机の正面までやってきたのだろう娘の声を知覚して目線を向ける頃には、呆けた表情を取り繕うことができた。
「あっれー? ひとりだなんて、珍しいね」
「そろそろ、わたしに対しておっしゃられたいことも、まとまられたかと思いまして」
 へらりと笑いながらとりあえず繋いだ間に、実に穏やかな声音で容赦のない罅がぴしりと。うっかり真顔に戻ってしまったコムイの視線を正面から受け止めて、娘はいっそ艶然と微笑み返してみせた。


 敵の敵は味方。そんな言い回しを持ち出したのは、騒ぎを聞きつけて現場に駆け付けたブックマンであった。引越し準備に奔走しながらも解析を続けられていた方舟のゲートから、突如として現れた招かれざる客人。
 当面の脅威を微塵の容赦もなく薙ぎ払ったその異能こそが、新たなる脅威。直前までとはまた色味の異なる警戒心をもって対象を取り囲むエクソシスト達に、しかし突きつけられたのは飄々とした男からのいかにも身勝手な問いかけ。
 自分達を害するのなら、お前達は自分達の敵となる。だが、自分達を害さないなら、少なくとも自分達はお前達の敵ではない。アレらは自分達に仇をなしたがゆえに、敵となった。さて、お前達はいずれを選ぶのか。
 敵味方を判じる基準のすべては、絶対性ではなく相対性なのだと。ゆらゆらと聾された言葉遊びの裏に滲む痛烈な皮肉に、切り返されたのが老練なる歴史の傍観者の声。今にも飛びだしそうだった神田の前に滑り込み、誰もに有無を言わせぬ口調で何より理想的に事態を収拾してみせたのはさすがの含蓄といったところか。


 指摘は確かにもっともであり、少なくとも彼らは理性的な存在であった。
 仇なさないなら敵ではないとの言葉に偽りはなく、神田達が武器を納めれば彼らも武器を納め、名を名乗れば名を返す。何者かと問えば、質問に答えることを交換条件として示された。
 そして明かされたのは、何とも信じがたい、しかして否定するだけの論拠がどこにもない突飛な現実。時代を超える。世界を超える。確かにイノセンスは神の結晶。だが、そこまでの不可思議を起こせるというのか。
 さすがの話に反応を示せない面々の中で、世界のあらゆる歴史を脳裏に刻む翁がいくつかの問答を挟み、首を振りながら「少なくとも、私の知る限りの歴史と大筋は合致する」と断言した。ならばもはや、コムイには彼らのやってきたという世界を妄想の産物と片付けるだけの根拠は存在しない。
 翁の刻む歴史は、何よりも厳密な事実の蓄積。その中に名を刻まれているというのなら、なるほど彼こそは鎖されてより三百年のかの国の、歴史に名高き“故人”当人なのだろう。


「かくも驚かれるとは、思いもしませんでした」
 優雅に指を持ち上げて、口元を隠してくすりと微笑む。わずかに傾げられた首の動きを追うように、長く艶やかな髪が背中を滑り落ちる。
「ですが、どうぞ機会は最大限にご利用なさいませ。時機を時機と知って逃すことほど、愚かしいことはありますまい」
「……僕が、君達をまだ信じきれていないってこと、知ってるよね?」
「かほどの集団の上に立つのに、それさえできないほどの御方だと侮るのは、何より無礼なことでございましょう?」
 いたずらげな瞳でほんのりと笑みを深めるが、その奥にある冷徹さを見逃せるほど、コムイとて鈍感ではないつもりだ。そして君の本音はどこにある。声には出さず、表情にも滲ませたつもりは微塵もなかった問いかけを、けれど娘は拾ってしまったらしい。
「悔いを、なるべく最小限にとどめたいだけですよ」


 かの島国の歴史に燦然と名を刻む男とは違い、娘はブックマンの記録に存在しないイレギュラー。ならば世界そのものが違うのだろうと、あっさり言ってのけた男に気負った様子は感じられない。
 アクマを焼き払った異能といい、気にかかる点は多すぎた。行くあてがないのは明確だったし、こうして世界を超えたきっかけにして要因は方舟しか思い当たらないし。
 当面の衣食住の保証と彼らが還るための術を探すことをコムイが提示したのは、立場による義務感からでもあったし、打算でもあった。この不可思議がイノセンスに繋がっていない証拠がどこにある。たとえイノセンスと無関係だったとしても、あれほどの異能を世界に放りだす危険性はいかほどか。削がれに削がれた教団の戦力は、それこそ猫の手も借りたいほどに逼迫しているのだ。
 逡巡などいらない。躊躇いなどいらない。後ろめたさなど抱かなくていい。世界を貫く絶対の法則は、案外抜け穴だらけ。死者の魂は叩き起こされ、世界の境界など跳び越えられる。
「ちょっと、付き合ってもらえる?」
「承知いたしました」
 だから、誘う声が硬くなったのは単なる自己満足に過ぎないとコムイは知っている。答える声の纏う軽やかさと透明さが、その事実を高らかに証しているのだから。

Fin.

back to another world index
http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.com/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。