朔夜のうさぎは夢を見る

曇天は白く

 そぼ降る雨をゆらりと見やり、男は何をするでもなく板敷きの床に座していた。酒が傍らにあるわけでもなく、何かをしていて飽きたという様子もなく。
「何が見えますか?」
 しとしとと響く雨音を縫って差し向けられた問いは、男の斜め後ろから。それに対して視線を向けることもなく、しかし意識を確かに流した小さな声が「見えるか?」と似て非なる問いを投げ返した。
「沙羅双樹だ」
 疑問を返す空気を感じたのだろう。いや、男はいつだって空気をしかと察し、読み取っている。それに応えるか否かは時と場合によるが。


 しかし、さて。此度は応えるつもりになったようだ。重ねられたのは、名。それは花の名。ゆるりと聞き流すだけで良いはずの、単なる名称。
 ああ、けれどその音は絶望の予感にも等しかった。少なくとも、問うた娘にとっては暗澹たる未来を幻視させられる符丁でしかない。
「雨に咲き、雨に散る……あえかなるいのち」
 雨粒に載せるように、男の声はひそりと響く。
「沙羅双樹の花の色は、常者必衰の理」
 その声こそは諸行無常の響きを湛えていて。
「なれば、驕れるモノはなお、久しからず」
 きつと握りしめられた指先の震えは、振り返らない男に見えているはずもない。
「まるで、滅びのかねごとのようだとは、思わないか」
 凪いだ声は草木を揺らす雨そのもの。ひたひた、しとしと、降り注ぐ。花の色を散らすように。花の命を散らすように。


「さあ、どうでしょうか」
 散る花弁のように頼りない声でのいらえに、男はやはり振り向かないまま、変わらぬ声音で「下手な嘘だな」とだけ嘯いた。




(けれど滲む光は美しい)
(偽りきれぬ空言であっても優しいように)
(嘘と暴く声でさえも優しいように)

Fin.

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