掴む掴めない掴もうとしない
何故だろうと、それがラビがに抱いた素直な印象だった。かの少女こそはあの冷酷無比と謡われるエクソシストを冷酷たらしめた人物と聞いていた。ゆえに、ラビは様々なパターンをシミュレートしていたのだ。
たとえば彼以上の冷酷さを湛えた氷の女王。たとえば案外単純な彼をやんわり陰で操る切れ者の策士。彼がその喪失に耐えかねるほどに依存を、執着を、愛憎を傾ける稀有な存在はいかなる人物であるのかと。
だというのに、少女はどこにでもいそうな、いたって普通のという形容がよく似合う娘。幼馴染みの気安さか、他に比べれば神田の態度はやわらかく穏やかだったが、それ以上の“特別な何か”は感じない。その程度の特別扱いならリナリーに対しても似たようなもの。ならば一体、あの少女の何が神田にそれほどの影響を及ぼしたというのか。歴史の傍観者として少なからぬ群像を見て歩いてきたラビの目をもってしても、神田との間に横たわる関係性は不明瞭なものだった。
方舟の解析に忙しい科学班の面々によってイノセンスの修復を後回しにされているため、ラビとしては基礎鍛錬以外にやることがない。ブックマン後継者としては是が非でも方舟に関するあれこれを記録したいのだが、邪魔をするなと専門家に締め出されている以上いかんともしがたい。よって、隙間のできた思考回路は、とりとめのない思索に費やされていく。
ふらりと足を向けたのは古い資料の置かれている書庫。科学班室や司令室の書物もいいのだが、ばたばたしている、しかも垂涎ものの希少な対象をただ目の前に吊り下げられているだけの場所を訪れる気にはなれない。古くてもいいから、何か手がかりになるような資料があればと思って出向いたのだが、人気がない廊下と違い、室内には明らかに誰かが動く気配がある。
「誰さ? こんなトコに来るような物好きは」
自分のことを棚に上げてのたまいながら扉をくぐれば、書架の合間から長い黒髪の少女が顔をのぞかせる。
「そういうあなたも“こんなところに来るような物好き”のひとりよ」
「そんな物好きは他にいないと思ったんだけどな」
からかう色の強い声にさらりと返し、ラビは笑う。
「こんにちは、ラビ」
「ん。こんにちはさー」
先客は、先ほどまでその思考の隅にずっと蹲っていた少女だった。
「“こんなところ”にどうしたの? 何か探しもの?」
「特に目的があったわけじゃないんよ。面白いものないかなー、と思ってさ」
「なら、科学判室に行った方がよっぽど興味深いんじゃないの?」
「追い出されたんさ。酷くね?」
「なるほど」
笑い混じりの声は、最後には深い納得を湛えて締めくくられた。わざとらしく溜め息をつき、「まで。酷いさ」と嘆けば、穏やかな苦笑が「ごめんなさい」とやわらかく紡ぐ。
「そういうは? “こんなところ”で何してるんさ?」
「書類の整理。前にやっていた分が半端なままだったから、続きをしているの」
言いながらひょいと持ち上げてみせられた書面には、たしかにいくばくか古い年代が印されている。以前は科学班で雑用を引き受けていたという話を既に耳にしていたラビは、まばたきひとつで納得に至る。
「鍛錬も大切だけど、ずっと同じことを繰り返してばっかりでも煮詰まるだけだ、って言われたの。だったら、何か生産的なことをしようと思って」
「一理あるな」
付け加えられた説明に頷き、ラビはを指導する元帥の穏やかな、しかし隙のない横顔を思い出す。
教えるのなら一人も二人も同じことと、基本となる発動の鍛錬はチャオジーの師となったティエドールがまとめて請け負っている。基礎体力はそれなりにあったようで、長く動いてなかったことによる筋力の衰えは順調な回復をみせていた。修練場でちらりと見かけたときの剣技の鍛錬は、神田のそれしか見たことのないラビにもわかる秀逸さだったと記憶している。
会話が途切れた直後からそれとなく作業に戻っていたは、そばにいるラビが気まずくならない程度の範囲でゆるゆると手を動かしながら口を開く。
「何か本を読むなら、ジャンルを指定してくれれば探すのを手伝うわよ?」
「んー、特に決めてなかったし、せっかくに会えたし。ここでお手伝いしながらおしゃべり、って選択肢はなしさ?」
手近な机に積まれていた書類を年代ごとの山に振り分けながら、ラビはちょこんと首を傾げる。特に気にした様子もなく肯定を返してきた少女の声に、ついと細めた瞳が鋭い光を弾く。せっかくの二人きりの時間。ここで観察を怠って、何が次期ブックマンか。
が定めた整頓の法則を簡単に聞きだし、てきぱきと作業を進める手つきに淀みはない。感心しきりで「さすがね」と褒め称える相手に「まあね」と切り返し、ラビはそろりと本題に忍び寄る。
「はユウと一緒に教団に来たんだよな?」
「そうよ。適合者じゃないから追い出されるかな、って思ったんだけど、そうならなくて助かったわ」
結局、クロス元帥には助けられてばっかり。溜め息交じりの呟きによって話の進路を暗示され、ラビはどう軌道を修正するかと思考回路の回転数を上げる。
「何が聞きたいの? ブックマン・ジュニア」
表情にも雰囲気にも出さなかったはずなのに、何気なく続けられたのはそんな一言だった。意外さにぱちりとまばたき、視線を上げようとさえしないの横顔にラビは不敵な笑みを浮かべる。
「ばれてた?」
「あれだけずっと観られていたら、嫌でも気づくわ」
「さりげなく見ていたつもりなんだけどな」
言い訳混じりにラビが額に手をやって天井を仰げば、はくすくすと喉を鳴らす。らしからぬ失態ね。言いながら手の中の書類をトン、と机に打ちつけて揃えて、静かに凪いだ夜闇色の瞳はようやく隣の碧眼を振り仰いだ。
たおやかな光を映す瞳は底が見えず、まさに闇のようだとラビは思う。同じ黒い瞳でも、リナリーとも神田とも違う、だけが纏う色。緑味を帯びたリナリーの瞳も、青味を帯びた神田の瞳も綺麗だと思うが、混じりけのない漆黒の瞳もまた美しい。そこから連想される夜の空気のように静かに澄んだ気配を湛え、はラビの言葉を待っている。
「って、ユウにとっての何?」
無言の後押しに促されるように、ひとつ息を吸い込み、ラビは修辞文句を一切排除した疑問を言葉に載せた。それこそは観察者の目をもってさえわからなかったこと。
うやむやのままの記録は好ましくない。何ごとも、すべて正しく事実のみを記憶に記録として刻むために、ラビは目を逸らさず対象の声を待つ。
「鞘よ。そして約束の証人にして共犯者」
「鞘?」
返されたのは、単純にして明快な単語。意味をとりかねて繰り返せば、誇らしげに、しかし苦しげに頷いては説明を継ぐ。
「かつて、まだ私たちが世界の何たるかさえ知らなかった頃。私が一方的に取り付けた約束なの」
その瞳が見つめるのは、遠く過ぎ去ってしまった懐かしき日々。悼み、慈しむ姿は少女にひどく浮世離れした印象を添える。
「彼は刃。だから私は鞘になる。鞘は、刃のために、刃と共に、刃の折れるまで。――子供の約束にすぎないはずだったわ」
もちろん、それだけの覚悟はしていた。それでも所詮は無知なる子供の覚悟。他愛のない、いとけない夢想。取り巻くすべてに絶望が満ちていても、そこに希望を見出していた無邪気で残酷な強迫観念。
そばにいたかった。たったそれだけの、ささやかな願いを言霊に篭めた。楔になる予感はしたが、枷になるとは思いもしなかったのだ。
「その言葉、何かの引用?」
切なげに顔を伏せたにラビがふと問いかければ、抑揚の薄い声が淡々と応じる。
「六幻はお社に祭られていた神剣で、伝承があるの。その一節の引用よ」
今となっては皮肉なばかりだが、約束を交わす二人はその立ち位置さえ伝承の一節をなぞらえていた。かつての少女は六幻を祀る守り手たる巫女で、かつての少年は六幻を振るう担い手たる血筋。神田ももそれを知っていて、はそれが真理であることをわかっていた。ただ、神剣が本当に“神の剣”であることがわかっていなかった。
「そして、子供の約束は神との契約に成り果てた」
息を継ぐために生まれた沈黙を青年が埋めれば、少女はそっと瞳を歪める。
「こんな風に想うようになるなんて、知らなかったの」
絞り出すように紡がれたのは、告解にも似た独白。手を伸ばした以上は最後までと、記録者はすべてを受け止める。持ち上げられた双眸は採光用の窓へと向かい、亡羊と何かを見つめている。
「私は望んでそばにいる。だから構わないし、それこそが願いの形。たとえそれを束縛と呼ぶ人がいても、私が自ら穿った楔だから誰にも文句は言わせない。それでいい」
でも、ユウは違う。続けられた声には絶望が滲み、深い哀切が溢れ出る。
その道行きを阻む気なんかない。背中を見ていられれば十分。置いていかれても、追いつけるようあがけるから構わなかった。自分の存在が彼の足手纏いだろうと叩き台だろうと、互いに自力で立つかぎり、半歩後ろを歩いていられた。そうやって均衡を保っていたはずだった。なのに、違った。
「ユウが振り返ってくれていたことに気づいてしまった。私の約束が足枷になっていたことを、知ってしまった」
小刻みに震える声は涙を連想させたが、の瞳は乾いていた。虚ろに空を見据え、そこに何を描いているのか。半端な好奇心で首を突っ込んだ意外に深い暗闇に、ラビは眉間に皺と多少の後悔を刻む。迂闊に第三者が踏み込んでいい内容ではなかったのだ。
下手な慰めの言葉はふさわしくない。しかし、何もせず放置しておくには、の姿はあまりに痛ましかった。たっぷりの躊躇いを挿み、恐る恐る腕を伸ばしてラビはうなだれてしまった後頭部を軽く撫でてやる。なされるままのは、道に迷って途方に暮れる幼子の姿を髣髴とさせる。
そして同時に思い知る。二人の関係を掴めなかったのは当然のこと。なぜならそれは明確な形を成しておらず、曖昧なまま、無意識に不安定に積み上げ続けたありとあらゆる思いの結晶。一度別たれ、再び廻り逢い、さらにさらにと積み上げられる思いの行き着く先。それぞれ好き勝手に積み上げていた二人の子供は成長し、ひとりはその手に持った思いを自覚して戦慄し、もうひとりは知ってか知らずか、ただ黙々と積み続けている。
「……は、ユウのことが好きなんだな」
ぽとりと零れ落ちた言葉は本当になにげなく、微塵の違和感もなく宙に溶ける。言葉が完全に消え去るのを見送っていたラビは、手の下で頭が一度沈むのを感じて逸らしていた目線を元に戻す。
「ええ、好きよ。その“好き”がどんな“好き”なのかを断言することは、もうできないけれど」
「そっか」
重くならない、しかし決して軽薄なわけではない同意を返し、ラビはの髪をくしゃりと掻き乱す。これ以上の好奇心は猫を殺すだけでは飽き足らず、目の前の少女の心をさらに引き裂くだろう。漠然とした確信にいまだ解消しきれない疑問を押し込めて胸に沈め。変わらぬ口調で、ラビは手の中の書類の収納場所を問いかけた。
Fin.