朔夜のうさぎは夢を見る

その笑みは釈明さえさせない

 一刻も早く捕まえて事情を問い質そうと思っていた相手に、のらりくらりと逃げ回られるのは悲しいかないつものこと。探せば探すほど居所がわからなくなるのも、どうやら長く教団に寄り付かなかったつけを一気に払わされているらしいこともわかっていたので、アレンは無理に師を探そうとはしなかった。ただ、ふとした瞬間に脳裏をよぎる思考はあまり好きになれなかったので、なるべく考えずにすむようにこうして用もなく教団内をうろついているのである。
 とはいえ、あまり腑抜けた姿を曝しているのは士気を保つ上で好ましくない。たまには修練場を使って鍛錬でもしようと足を向けたアレンは、そこここで鍛錬を積んでいた探索部隊員たちがちらちらと視線を部屋の奥に向けている様子に小首をかしげる。
 エクソシストが鍛練していれば、その身体能力の高さからそれなりの注目を集めるのはいつものことだが、ラビは書庫に篭もっていたし、クロウリーはまだ病棟。神田は基本的に修練場によりつかない。となれば、残る候補としては神田と師を同じくするマリであろうか。
 承諾してもらえたら、ぜひ組み手の相手を願おう。ひとりで鍛錬するよりはよほど効率的なはず。そう思って足を進めたアレンが見たのは、黒白の長衣に身を包んだ、長い黒髪の少女だった。


 見慣れぬそれは民族衣装の類だろうか。袖と裾とがゆったりとした意匠は独特で、動きにつれて舞う布地をつい目で追ってしまう。慣れた調子で足を捌き、手にした剣を振るう姿は実にさまになっている。武器を用いた武術の心得はないに等しいアレンだったが、その動きが神田のものと同じ分類に収まることは見て取れる。
 ひゅっと風を切る音が響き、横薙ぎに一閃。動きを止めて暫しの時を置き、ゆるりと姿勢を戻してから一礼。その段になってようやく顔を持ち上げると、は離れて立っていたアレンに向かって「こんにちは」と笑いかけた。
「こんにちは。も鍛錬ですか?」
「ええ。発動の訓練は終わったから、今は自主鍛錬なの」
 とことこと近づいたアレンに見えやすいように手を持ち上げて、は沈黙を保つイノセンスを一瞥する。
「少しでも長い時間一緒にいれば、わかるようになって、シンクロ率も上がるかな、と思って」
「そうかもしれませんね。それに、イノセンスを常に持ち歩く癖は、今のうちにつけてしまった方がいいかもしれません」
 一歩外に出れば、そこは敵地の真っ只中。イノセンスを肌身離さず持ち歩く習慣は、保身のための最善にして最低限の一手に他なるまい。それに、装備型であるはまず己のイノセンスを知るところからはじめなければならない。そのためにも、発動訓練時に限らずイノセンスを手に馴染ませるのは賢明な選択だろう。


 言ったアレンが見やる先、のイノセンスはとても目に馴染んだ形状をしていた。無骨な、しかし優美なシルエットを描く長剣。対比されるのはその色味。見慣れたそれが闇を思わせる漆黒であるのに対し、目の前のそれは月明かりのような純白。偶然か、必然か。いずれにせよ皮肉なものだとアレンは胸中でひとつ溜め息を落とす。
「アレン? どうかしたの?」
「いえ。綺麗なものだと、そう思っただけですよ」
 黙って視線を落とすアレンを不審に思ったのか、気遣うような声がそっとかけられる。心配をさせるつもりはなかったから、顔を上げて笑みを刷き、アレンはもうひとつ胸の中にあった思いを言葉に変える。
 その言葉に偽りはなかった。漆黒の剣も美しいと思っていたが、純白の剣もまたひどく美しい。神の武器と、その形容が己の腕などよりもよほど良く似合うと思うのだ。
 訝しげな表情が完全に払拭されることはなかったが、素直な称賛にはほんのりと頬を赤らめ、照れくさそうに目元と口元を和ませる。
「発動するとね、闇色になるの。それもとっても綺麗なのよ」
 まだ発動は自在にできないから、見せてあげられないのが残念だわ。溜め息混じりに呟きながら、刀身をそっと撫でる手つきはとても丁寧で、彼女が既にその武器に絶大なる信頼を寄せていることをうかがわせる。
「名前は決まったんですか?」
「ええ。運切っていうそうよ」


 愛しげに、切なげに、見つめる表情は複雑に入り混じりながらどこまでも静謐で、アレンはそれを乱さないよう心がけながらも、思わず問い返すことを止められなかった。
「サダギリ?」
「運命を断ち切るもの、という意味なの」
「運命を……」
 いっそあどけないほどの笑みを浮かべて歌うように紡ぎ、は喉の奥を鳴らす。
「皮肉な、そして崇高な名前だと思わない? 一体私は何の、どんな運命を切り刻むというのかしら」
 口調はそれまでと変わらないのに、声に滲む凄みだけが一気に深まる。無邪気さに載せた、昏く深い嘲りの色。
 まだ知り合って間もないが、時おりはこういう虚ろな笑みをみせる。穏やかに微笑み、控えめながらも機転の利いた会話を楽しめる人物像の向こうに霞む、それは少女の持つもうひとつの素顔なのだろう。ふとした瞬間に垣間見える深い闇は、という人間をわからなくさせる。アレンは、それが少しだけ恐い。手を伸ばした先、触れるぬくもりが実は虚像なのではないかという考えが脳裏をよぎり、どうしようもない不安に駆られるのだ。
『――叶うなら、悪しき運命を断ち切る存在でありたい。その願いを、お前は聞き届けてくれるかしら』
 思索に潜っていたアレンは、鼓膜を打った呟きにはっと視線を巡らせた。呟いたのは無意識だったのか、は変わらず刀身に指先を添え、じっと純白の刃に魅入っている。


 きっと、それはほんの一瞬のこと。やけに長く感じられた不自然な沈黙は、流麗な所作でが刃を腰の鞘に納めることで終止符を打たれる。かちん、と硬質な音を残して白く耀く刀は眠りについた。
 神田のイノセンスと対をなすようなその姿は、加工を施す科学班の面々にも同じ着想を抱かせたのだろう。多少の差異はあるものの全体的な意匠を神田のそれになぞらえた、しかし色彩だけが正反対の鞘は乳白色。穏やかでやわらかい色だというのに、そこに闇を連想するのはの見せた仄暗い笑みのせいだろうか。
「アレンは、組み手とかはやるの?」
「え? ええ、まあそれなりに」
 それまでの話題をさっぱりと打ち切り、わずかに下にある夜闇色の双眸がくるりとまばたいてアレンを見上げた。唐突な話題の転換に戸惑いはしたものの、すぐに諒解して返したアレンにはにっこりと楽しげに笑う。
「鍛錬に来たのよね? よければ私とやってみない?」
 それなりに強かったのよ。ちょっとブランクがあるから、自信はないんだけど。言い訳のように続けられた言葉は、しかしとても軽やかで、自信がないと言いつつそれなりに腕に覚えがあると纏う空気が雄弁に語る。
「喜んで。僕も、ちょうど誰かに頼もうと思っていたんです」
「じゃあちょうど良かったわ。イノセンスを荷物のところに置いてくるから、待っててもらえる?」
「わかりました」
 首肯を確認してから踵を返し、パタパタと壁際に駆けていく背中は細く、薄い。その背中は戦場に立つにはあまりにも不似合いに思えるのに、その腰に佩かれた刀があまりにもしっくりと似合っていて、アレンはぼんやり見送っていた視線をそっと足元に落とした。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。