夢の続きを聞かせてよ
病床から出る許可をもらい、最後に見たときと寸分変わらない自室の扉を開いたときにはさすがに感動に胸を打たれた。定期的に掃除されていたことがわかる程度にずれた小物の場所だとか、それでも変えられずに置いてあったため色褪せてしまったシーツだとか、時間の推移を感じさせる痕跡がそこかしこにある。
実際、再びこの世界に足を下ろした際に身に纏っていたコートも、丈が合わずにかなり見苦しい状態にあったと聞く。それでも変わらないものがあり、変わらずに自分を出迎えてくれた。変わらなさを保ってもらえたことに、は扉を開けたところで思わず泣き崩れてしまっていた。
時を経たことで身長は伸び、食べ物を口にしていなかったため肉付きは薄いものの、不健康ではない程度に体つきも変化した。かつてのままでは不便であろうと、年上の女性教団員から古くなった服をもらうなど、徐々に日常が整いつつあるのを肌で感じるのは素直に嬉しいこと。
何を理由にしてかを明確に絞り、言葉にすることはできない。それでもただこみ上げる涙に、付き添っていたリナリーがもらい泣きをする。そうやって二人で顔を涙に濡らして泣き笑いながらなんとなくじゃれあっていたところに、カツンと床を蹴る音がひとつ響き、呆れを雄弁に語る気配が際立つ。
「何してんだ?」
ぶっきらぼうで、状況がまったく読めていなくて、きっと泣き出してしまったとリナリーの心の機微などまるで理解できていないだろうその鈍感さは、残してあった部屋のようにやはり変わらないもの。時間はおりしも昼食時。かつての習慣をこうして変えずに貫いてくれることこそが彼の無自覚の優しさ。嬉しくて懐かしくて、そこがなんだかおかしくて、同じことを考えたのだろうリナリーと目を見合わせ、はくすくすと声を立てて笑いあった。
良くも悪くも我が道を行き、傍若無人な態度をとることの多い神田は、逆にいえば不干渉を決めた対象にはとことん無関心だ。その基準はわかりやすいものからわかりにくいものまで千差万別であるが、ひとつに“女心”というカテゴリーがある点は本人も自覚するところである。
とリナリーが額を突きつけて笑いあっているという時点でそれ以上の追求を放棄した神田は、リナリーが去った後も、が顔を洗って身支度を整えるまで廊下で立ち尽くしたまま手持ち無沙汰な時間を過ごすという選択をした。
「お待たせ」
ごく丁寧な所作で扉を開け、顔をのぞかせたは照れたようにはにかんで廊下の壁にもたれていた神田に「待っててくれてありがとう」と首を傾げる。それはいつもと同じこと。かつてと同じ時間が繰り返される感慨に涙腺が再び緩みそうになるが、怪訝さを隠しもしない目線に何とか踏みとどまる。
石造りの廊下に、二つの足音が響く。カツーン、カツーンと長く響くものがひとつ。その間を縫うように、カツカツと短く響くものがもうひとつ。けれどもそれは決してせわしないものではなくて、こうして歩幅の差を考えて歩調を調整してくれる神田のさりげない気遣いが、いつでもに抱えきれない幸福と見過ごせない意外の念を抱かせる。無意識に必ずのペースに合わせるのだから、案外器用というか、そういう面をもっと前面に押し出せばいいのにというか。
やがて辿りついた食堂で、かつての日常のように並んでカウンターを覗き込む。かつてと違うのは、格段に神田の英語力が上がったという点。あの頃は、二人とも語彙が足りずに決まりきった注文を紡ぐことしかできなかった。
ひょっこりと顔をのぞかせ、サングラス越しにもわかるほど目を大きく見開いて「まあーっ!!」と叫ぶジェリーに、は照れくささから、神田はうんざりだという空気を滲ませてそれぞれ眉根を寄せる。
「ちゃん! ひっさしぶりねー。噂には聞いてたけど、ようやく会えたわ」
「お久しぶりです。またジェリーさんのお料理が食べられるなんて、本当に嬉しいです」
「まっ、カワイイこと言ってくれるじゃない。いいわよ、何食べる?」
鍋とお玉を片手に小首を傾げるジェリーに、それまで我関せずと黙っていた神田は「蕎麦」とのたまい、対するは「おかゆをお願いします」とすらすら続ける。
「なーに? あんたたち、昔の再現でもしているの?」
ちっとも変化がないじゃない。眉をひそめて言う料理長に神田は隠しもせず舌打ちをこぼす。
「再現、というわけじゃないんですけど。やっぱりはじめは食べ慣れたものかな、と思って」
隣人の粗暴さを「ごめんなさい」と代わりに謝り、やんわり微笑んでは釈明する。
慣れているし、わかっているから構わないとあっさり流されたことがありがたいやら申し訳ないやらで眉尻の下がってしまったに、からりと笑ってジェリーは続ける。
「せめてもうちょっと栄養価の高いもの食べなさい。神田ちゃんも。二人ともずいぶん痩せたわよ?」
「んなことねーよ」
「筋肉が落ちている、とは言われましたね」
対照的な反応を示す様さえ、かつての日々を思わせる。ゆるりと両目を細め、ジェリーは好き嫌いの激しい少年と案外食べず嫌いな少女にあれこれ手を回していた己を思い返す。
「おいしい大豆が入ったのよ。ちゃんのこと聞いていたし、お豆腐と湯葉にしたの。嫌いじゃないでしょ? どう?」
「じゃあ、私はそれで。あの、味付けは薄めでお願いします」
「わかったわ。神田ちゃんは? どーしても嫌なら、お蕎麦だけじゃなくてせめて天ぷらも食べなさい」
「……と同じでいい」
「オッケー。少し待っててね」
むっつりと、しかし素直に承諾を返した神田ににこりと笑い、ジェリーは厨房奥に向かって「湯葉出してー!」と叫ぶ。探索部隊やエクソシストと違って、内勤の面子にはさほどの変化もない。見覚えのあるコックたちにちょこんと会釈を送れば、屈託のない笑顔が返される。
「あ、良かった。間に合ったかな?」
そして背後から響いてきたのは楽しげな少女の声で、いつかのように食事の同席の許可を求められる。神田が面倒くさそうに流し見て沈黙を保つのも、がにっこり笑って頷くのも変わらない。新しく注文をとるために顔を出したコックにランチメニューのひとつを告げたリナリーと談笑をはじめたは、かつてと違いそれをちらりと見やって微かに頬を緩めた神田には、気づかなかったふりをすることに決めた。
Fin.