朔夜のうさぎは夢を見る

哀しみの花束

 資料庫の連なる廊下は、雑用係だったの庭のようなものだ。人気がなく、用があるものもよほどの急ぎか用件が溜まりでもしない限り訪れない、ぽっかりと空いた教団内の吹き溜まり。そこが司令室だの食堂だのといった仕事や生活の中心の場から見てひどく不便な場所にあるということも一因なのだろうが、はそういう辺鄙な場所が好きだった。
 ようやく自由に歩き回ることを許可してもらったのをいいことに、まずは体力の回復に努めることにした。ベッドに縛り付けられていた時間は短いとは言いがたいものの長くもなかったが、曖昧な夢にたゆとうている間に筋力が大分衰えてしまっている。
 手近なところで散歩からはじめてはどうかという医療班員の助言に従い、こうして今日も、迷子か物好きな人間ぐらいしか寄り付かないような建物の隅までやってきているのだ。


 バルコニーに足を踏み出し、眼下に鬱蒼と茂る森を見渡しては大きく息を吸い込む。吹き上げる風に乗って届く微かな喧騒は、多くの団員がそれぞれの時間を送っている証。詳細を捉えることのできない、しかし確かなそれらに細く双眸を眇め、それからは天を振り仰いだ。
 目を覚ましてからずっと、なしたかったことがある。暇にかまけて動かせるのは思考回路ぐらいなもの。だから、時間が許す限りずっと考えていた。それにふさわしい内容が何であるか。ふさわしい場所がどこであるか。ふさわしい時がいつであるか、を。
 抜けるように澄み切った空は美しく、手を伸ばせば太陽にも届く気がした。きっと今日こそがふさわしい。直感でしかない確信を胸に、はついと息を吸いこんだ。少しひんやりとした空気が身体の隅々に行き渡るのを感じ取る。自然と背筋が正されるような、身の引き締まる感触。身体の脇に下ろしていた両手を前面で祈りの形に組み、は瞳を閉じてゆっくりと呼気に言葉を載せる。


 かつて詩を載せずに歌い続けた旋律に、今は正しく言の葉を載せて歌う。歌う必要などないと言われていたが、黒の教団がそれほど平穏な場所であると錯覚するには、は聡明に過ぎた。
 来てほしくなどない、けれどいつか訪れる日を予感して、少しずつ詞を学んでおいて良かったと思う。信じる神を異にする相手を悼むのに、他の方法がには思いつかない。
 正しく祈るその作法がわからないなら、祈りを載せた旋律を送ればいい。それもまた正しい祈りの姿のひとつだと、そう教えてくれたのは正しいとされる在り方からかけ離れた神父だった。大層な文言をいくつも並べる正しい聖職者たちよりもその言葉にこそ深い感銘を受けたのは、自分が捻くれているからか、それとも世界の皮肉か。
 思わず抱いた疑問を鼻で笑ってくれたかつての少年がちょくちょく顔をのぞかせては声の届く範囲でうたた寝をしていたのも、振り返ることができるほどに昔のこととなった。それでもの感想は変わらず、こうして懐かしい人々が還ったとされる天に向かって声を振り絞るという選択に行き着く。


 声は風に乗って舞い上がり、いくらかは背に流れて石造りの廊下に反響した。幾重にも重なり合って消えていく音の向こうから、拍を取るかのような律動的な靴音がやってくるのを聞き取りながら、は振り向きもせずただ旋律に意識を傾ける。
 傍近くで掻き消えた靴音は、しばらくして低い歌声へと取って代わられた。曲調の切り替わりに合わせて上乗せられた声に、らしくないことをとは目を丸くする。そのまま目線を横に流せば、そっけない横顔が目を閉ざしたまま地に向けられていた。
 寝に来ているのだと公言していた彼は、いつだってが歌う曲を最後まで通して聴いたためしがないはずだった。だというのに、本来のそれとそこかしこで微妙に異なる旋律を、の声にぴたりと合わせて紡ぎあげる。テンポの癖も、息継ぎのタイミングも、すべてを把握して声を添えられるのは存外心地良く、見開いていた目をそっと和ませ、もまた顔の向きを戻して声に一層思いを篭める。
 脳裏に浮かべ、安らかな眠りをと祈る相手はきっと違う。それでも、手向けるのが鎮魂の祈りであることは同じだから、できるなら自分の声が彼の祈る相手にも届けばいいとは願う。
 最後のひと言、祈願文を締めくくる一節になって、音が別れる。高音から低音へと落とすと向き合うように、低音から高音へと彼の声が昇る。口を噤み、風がすべての音を散らす余韻に身を沈めて。彼がかつて彼女にそうしたように、彼女もまた、零れて床に落ちる一粒の涙を見ないよう、ゆるりと瞼を閉ざした。

Fin.

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