花冠に埋めて
珍妙なこと、奇怪なこと、不可解なことがあったらとりあえず科学班室長を疑えというのは、黒の教団に存在する不文律のひとつである。すべてがすべてコムイに端を発するというわけではないのだが、コムイの入り浸る科学班によって引き起こされた事態である場合が多いということ、そうでなくとも仮にもサポート部門のトップに君臨する頭脳の持ち主であるから、コムイに問えば大概の珍事に説明がつくというのがその論拠である。
教団に在籍する時間が長くなればなるほど骨の髄まで染みるその暗黙の了解は、しかし身につけるのにさほどの時間も要らない。よって、教団への在籍暦が群を抜いて短いアレンが、目の前に座す在籍暦三年弱のラビと共に示し合わせたように科学班室の方角を振り向いたのはごく自然な反応といえた。
「まーた何かやってるんさ?」
「爆発音じゃないことに不気味さを覚えた自分が嘆かわしいです」
「ああ、それは言えてるさ」
こめかみを引きつらせながら呟くアレンの声は重く、それに同調したラビの声も心なしか低く沈む。それだけ教団に慣れたのだといえば微笑ましくも感じられるが、被害の中心が明白でない以上、どこでとばっちりを喰うかわからないと反射的に考えてしまうのは本拠地の在り方として正しいとは言いがたいだろう。
とはいえ、今回は不穏な気配もなければ背筋を襲う悪寒もない。石造りの壁に反響するため探りにくいものの、音源と反対方向に近いことを感じて若干の抵抗を覚えたが、アレンとラビは揃って科学班室へと足を向ける。
途中、すれ違う団員たちもかそけく響く音律には何かしら思うところがあったのだろう。あるものは怪訝そうに、あるものは思いを馳せる風情で、またあるものは懐かしそうに。それぞれの表情を浮かべて宙を仰ぎ、それからそれぞれの持ち場へと足を急がせている。
「コムイさん?」
「邪魔するぞー」
結果から言ってしまえば、響く音律の正体は科学班ではなかった。簡単なノックをはさんで二人のエクソシストが顔をのぞかせれば、居合わせた班員たちは廊下ですれ違った団員たちと同じような表情を浮かべている。中でも懐かしさだの微笑ましさだのを強く浮かべているコムイとリナリーを見つけ、アレンとラビは部屋の最奥へと向かう。
先に二人に気づいて首を巡らせてくれたのはリナリーだった。照れたようにはにかむ姿には、何かを振り返る郷愁が滲んでいる。痛ましさを伴うものではなくて、慈しみを伴った郷愁をリナリーが浮かべているのは実は珍しい。好奇心を加速させて、ラビがわくわくと口を開く。
「なになに? リナリーにはこれが何かわかっているんさ?」
「うん、知ってるよ。今回はコムイ兄さんの仕業じゃないけれど、ここに来たのは大正解ね」
にっこりと音のしそうな眩い笑みを浮かべて、リナリーはころころと喉を鳴らした。隣で眉尻を下げたコムイが「酷いなぁ」と情けない声を上げているが、それさえもどことない温かみに満ちている。
「聖歌ですよね? 誰が歌っているんですか?」
「僕らの新しい、そして懐かしい仲間がね。君たちはそういえば、まだちゃんと自己紹介をしていないんだっけ」
とりなすように続けられたアレンの問いに答え、コムイは笑いながら二人を手招く。廊下よりも音がよく聞こえると思ったら、どうやらわざわざ窓を開け放していたらしい。近づくほどに鮮明になるのは、高く透明な少女の声。
耳慣れない声に小首を傾げていたアレンとラビだったが、はたと思い立ったようにラビが首を巡らせる。
「もしかしてこれ、あの女の子の声?」
「ああ、あの!」
「そうだよ、正解」
言われて思い当たるのは、不思議な出会いを果たしたひとりの少女。納得の声を上げたアレンに続けて、コムイは至極楽しそうに頷き返す。
「でも、どうしてレクイエムなんさ?」
「レクイエムというか、これ、あの子のお気に入りの歌なんだよ。いくつも覚えるゆとりはないから、って歌詞を覚えたのがこれだけだったんだ」
「でもきっと、それだけじゃないと思うな」
苦笑交じりに解説したコムイの隣から、リナリーが窓の外に身を乗り出すようにしてそっと言葉を紡ぐ。
「だって、普段は歌詞をほとんどつけずに歌っていたのよ。言葉を載せると、その通りの歌になるから、って。だから、歌詞をつけて歌っている今はきっと、本当にレクイエムを歌っているのよ」
振り返り、リナリーは背後にいたアレンの耳元にそっと口を寄せる。
「ね、スーマンにとっても懐いていて、スーマンものことを可愛がっていたの」
まるで父娘みたいだったのよ。内緒話のように告げる声は小刻みに震えていたが、どこか楽しげに思い出を語る色に縁取られていた。
青空に溶ける旋律は、物悲しさを孕みながらもそれさえ美しさへと昇華させるものだった。複雑に歪んだリナリーの瞳を見つめ返していたアレンは、くっと唇を噛み締めてから「そうですか」とやはり震える声で頷き返す。悲しい犠牲がたくさん生まれたし、これからも生まれるのだろう。だけれども、そこに一方的な断罪と糾弾の声ではなく、誰かしらが悼む声を添えてくれるという事実が胸を締め付ける。
世界を白と黒だけに塗り分けることはできない。灰色であることを許容されることの深い安堵は、きっと実際に足を踏み入れるまで決して理解できようはずがないのだ。
旋律が佳境に入る。祈りを篭めて指を組み、小さく俯いたところで上乗せされた新しい声。天に吸い込まれるように伸びる声を支える、しっとりした男声が広がる。ほんの少し震えた女声は、いかな感情によるものか。しかしそれは一瞬のこと。すぐに一層凛と張り上げられ、終焉へとひた走る。
聞き覚えのある、けれど一度も聞いたことのない声に驚いてコムイを振り仰いだアレンは、切なくもますます嬉しそうに表情を和ませている様子に自分の予感が当たっていることを知る。
「デイシャくんのことを悼んでいる時間もなかっただろうからね」
誰にともなく言い、帽子を手にコムイは目線を伏せて祈りの姿勢を取る。
あの彼が、こんな声を出すのか。こんな声で、こんなにも美しく鎮魂歌を歌うのか。意外だと、信じられないと感じる一方で、アレンは胸の内でずっと納まりがつかなかった何かがすとんと落ち着いたことを知る。すべらかに織り上げられる旋律は、彼がこの音にとても慣れていることを知らせてくれる。彼はきっと、この歌を人知れず幾度も天に送り続けてきたのだ。
同じく目を見開いていたリナリーとラビがそれぞれ頭を垂れるのを視界の隅に、アレンは崩れかけていた指を組みなおす。紡がれる祈願文を口の中で小さく追いかけ、溢れる思いのすべてを最後の一言に篭める。
まことに、まことにそうでありますように。
そして、歌い手の姿も参列者の姿も見えない不完全な鎮魂のための祭儀は、石造りの壁へ音の乱反射を残して、はじまりと同様にふっつりと途切れた。
Fin.