朔夜のうさぎは夢を見る

あるのは静寂と残り香

 本人はなんともないと言い張っていたが、諸処で適合者としての検査を終えて医療班室に引きずっていけば、一瞥した医療班班長には問答無用で寝台へと押し込められた。動作に多少緩慢な部分は見受けられるが、それは長く眠り続けていたためだろうと判断していた神田は、やはり専門家は違うのかと妙な感心を覚える。
 不本意そうな表情を浮かべていたのはわずかの間で、はあっという間に深く眠りに落ちた。それみたことかと大袈裟に肩を竦めた教団における医療の長は、寝台脇に佇む神田に「適当に休めよ」とだけ言い置いて立ち去っていった。
 自身の行動の根拠が把握できないという慣れない感覚に思い切り眉を顰めながら、神田はただその場に立ち尽くす。
 たとえば勘に従うだとか、つい反射的にだとか、そういった説明しがたい根拠に基づく行動は少なくないと神田自身自覚している。しかし、それはそれで感覚的な理解と納得を伴うものであり、強いて言うならば経験や体感記憶に突き動かされて、という法則が存在する。
 だから問題は何もない。己の行動を把握し、納得し、そしてその先に訪れるすべてを受け入れる覚悟はできている。だが、理屈での説明はおろか、感覚や感情での説明すらつかない行動など取ったことがない。そんなことのないようにと生きてきた。ゆえに神田は、自ら定め、貫いた生き方さえ裏切る己に戸惑いながら、それでも断ち切ることができずにその場に佇むという選択を据え置く。


 いつだって、心根に正直に生きてきた。いつどこであの魂を糧とした悪性兵器に襲われるかもわからない、平穏ながらも悲しく殺伐とした空気に満ちた日々だったからこそ、両親はそう教え諭してくれたのかもしれない。
 悔いのないように、悔いを残さないように。そう生きるためには、心を偽っているゆとりなどなかった。いつか取り返せると確信しているから、人は後顧に憂いを残す。そのいつかが訪れる可能性が限りなく低いと確信している日々において、残る憂いは悔いにしかならず、悲しみと苦しみの温床にしかならないのだ。
 誰に罵られようと諭されようと、己が決めた道行きを覆すつもりなどなく、実際そうして生きてきた。思いに悔いはなく、言葉に恥はなく、行ないに未練はない。たとえそれを感じたとしてもすべては己が手で掴み取ったことと、受け入れ、飲み下し、納得して生きてきた。
 物事を複雑に捉え、ややこしく考えるのは神田の好むところではない。自分がそういった思索に不向きであることへの自覚もあるし、考えたぐらいで変わるようなものなら途中で切り替えればいい。結論が変わらないのなら、考えるだけ時間の無駄。最低限の思惟を踏まえ、一刻も早く行動に移すことこそが神田にとっての美徳。
 しかしこの場においてそれは通用しない。掴めない自身を把握するには、思索しか手段がない。そして、対象が自らの内心である以上、自分で考える以外に方法はないのだ。


 なぜ立ち尽くしているのか、なぜ立ち去れないのか。その答は明白。目の前に眠る少女から目を離したくないからだ。では、なぜ目を離したくないのか。過去にも、邂逅から今日までも、目を離すことに対してこんなにも大きな不安を抱いたことなどなかったというのに。
 寝姿はひどく静謐だった。降り注ぐ月明かりは蒼白く、穏やかな寝顔を染め上げて頬に睫の繊細な影を落とす。かそけき呼吸は不自然に遠く、知らず湧いた恐慌に似た思いに駆られて指を伸ばす。
 寸前で躊躇い、しかし触れずにはいられなかった髪はひやりと冷たく、その向こうの額は仄かに温かかった。幻ではないと、生きているのだと、ここにいるのだと。事実をひたすらになぞっては確認している己を知り、神田はようやく自分がを失うことに怯えていたと気づく。
 喪失による悲しみと無力感はいまだ生々しい。そこに死のにおいがしなかったという直感を心の支えに、邂逅を信じてひた走ってきたのが精一杯の強がりであったことが今ならばよくわかる。
 あの喪失が再び訪れたとき、同じ直感を抱くことができるだろうか。同じ邂逅が訪れるだろうか。自問には否としか答えられない。なぜなら彼女は今日というこの日から、その命を戦場に繋ぎとめる楔の担い手になったのだから。


 彼女が神の結晶と巡り合ったとき、口をついたのは拒絶の言葉だった。その由縁もまた神田にとって把握できない対象のひとつだったが、坂を転がり落ちる小石のように、動きはじめた思考回路は止まらない。蓋が外れ箍が外れ、心を埋め尽くす不安と哀しみは感情と事象とを繋ぎ合わせ、連想は収束しながら真理へと加速する。
 違う、嫌だ、そうじゃない。それは、それだけは違うのに。
「なんで、お前が選ばれるんだよ」
 エクソシストは神に選ばれし存在。その身を世界のために供し、その身を神のために贄となす存在。選ばれたなら、彼女はもう神のもの。誰かに、何かに、護られることなど適わなくなってしまった。
 呻き、俯いた視界の隅に映ったのは幻想。彼を戦場へと駆り立て、彼に希望と絶望を与え続ける一振りの刀。すべてのはじまりはどこにあったのか。示された選択肢を選び取った瞬間か。かの剣を手にした瞬間か。それともいっそ、命を抱いて生れ落ちるよりも前から宿世と定められていたというのか。
「一体、何をどこまで奪えば気が済むんだ」
 彼女はそれを希望と言った。だが、彼にはそれは絶望にしか映らない。彼女を護りたくて手にした武器は、彼女を戦場へと追いやる未来への標であったというのか。情けなく歪んだ表情で常ならば愛刀を佩く腰元を睨み据え、聞いてなどいないだろう神なる存在へ神田は恨み言をぶつける。


 傍にいたい、共にありたい。たったそれだけだった幼い願いと望みは、かくも無残に砕け散った。己が命を保つ限り十分に叶えられるはずだったのに、手の届かない、目の届かないところでの命が刈り取られるという道が唐突に目の前に開けた。
 明日を保障されることさえない命。未来を確約することの出来ない身空。目を離したら、その瞬間が最後になるかもしれない。今までのように、振り向けばそこにいるという確信はもう抱けない。ほんのわずかに目を逸らした瞬間に、あの耐え難い無力感が死のにおいと共に襲い掛かるかもしれない。
 不吉な未来ばかりが脳裏をよぎり、瞼の裏を焼く。かつて戦場で敵に視せられた幻覚が網膜に蘇り、眠る少女の姿に重なる。


「――いくなよ」
 しんと静まり返った室内に、囁きにも等しい呟きはひどく重苦しい存在感を放つ。両拳を体側できつく握り締め、神田は身の内の恐怖と絶望をまっすぐ見据えて受け入れる。捻じ伏せることも蹴散らすこともできないなら、認め、飲み下し、そして踏みしだいて進まなくてはならない。
「ひとりで先には、いくな」
 掠れ、震える声で胸の奥底深くから思いを掬い上げ、神田は寝台の脇に置いてあった椅子へと座り込む。早ければ明朝にでも、神の武器はその姿を完成させ、彼女の手元へと届けられるだろう。そうでなくとも、その事実は広く教団中に知れ渡ることだろう。ならば、彼女が神のものではなくただ彼の隣にあったままの存在であるのは、今宵が最後。
 終焉を見届け、誕生を見届けよう。彼女が遠くに往きすぎないように見つめていよう。彼女が急いで逝きすぎないように見つめていよう。適うならば傍にいよう。あの頃と同じように。
 透明な決意に心を浸し、神田は最後の夜が過ぎるのをただ静かに見つめていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。