全てが過ぎ去る朝焼けに
置き去りにして歩み続けることには、いい加減慣れたつもりだった。すべてを守ろうとして、両腕から溢れるほどに抱え込んだところで、足元が見えなくて転ぶのがおち。そうなってしまえば、腕の中のすべてを喪うことを知った。
すべての命には平等に価値があるとか、神の許に人はみな平等だとか。その理想論そのものを否定するつもりはない。そんな世界があるのなら見てみたいと思うし、そんな世界で暮らせるのならさぞ平和なことだろうとも思う。別に気にならないから誤解や思い込みは放置して歩いているが、神田は別に、破滅願望を持っているわけでもなければ死にたがりでもないし、まして戦場に快感を覚えるような破綻した精神の持ち主でもない。
ただ、必要なことと直面した現実に対して、偽ることが嫌いなだけなのだ。
森の中で目についた花を、手折ってきた。
ひっそりと咲く可憐な花は、あの人の、察するにも余りある凄絶な人生を象徴するにはあまりにも頼りない。けれど、それでいいとも思った。あの人はきっと、こんな風に、ひっそりと穏やかに、何ごともなく生きていたかったのだろうと。その思いだけは、出会ったときから微塵の変化も遂げていなかったから。
「アンタを置いて」
そこは、墓所と呼ぶにはあまりにも開放的で、あまりにもそっけない場所だった。うっそうと茂る木々の合間に、ぽっかりと開けた陽だまり。その端の方に新しく掘り返された土の跡があり、平らで艶々とした楕円形の石が置かれている。その周りには、萎れたり枯れたりまだ新しかったり、とにかく様々な状態の、特に規則性もない花々が散っていた。
「俺たちは往く」
萎れた花と枯れた花を適当にどかし、できた空間に花を添える。漆黒の石を背景にして、花の薄紅色はよく映えた。思わぬ満足感に少しだけ目尻をやわらげ、そういえば、もう何年も桜を見ていないなと思い出す。
花の形も季節もまるで違ったが、儚く、潔く、凄艶に散る命にかの花を連想する己の感性が、神田は決して嫌いではない。一緒に見てみたかったと思い、感想を聞いてみたかったと思うほどには、自分の直感がいい線をいっていると確信している。
散るならばかの花のごとく。そう思うのは、神田のアイデンティティがあくまで東の果てのあの島国にあるからだ。きっと、生きて戻ることはないだろう。あの花を見ることはもうないだろうし、あの国に骨を埋めることは叶うまい。覚悟はできているが、切なさを覚えないといえば嘘になる。そしてやはり、あの人を思う。
「帰してやれなくて、悪かったな」
教えてくれることは多かったが、知ることが出来たのはほんのわずかなことだった。あれほど桜が似合う人だったのに、神田はあの人がどこに帰りたがっていたのかを結局知らなかった。どんな花を添えれば慰めになるのか、知る機会はなく、そして永劫に失われてしまった。
置いていかれるのは辛いのだと、そう言いながら、けれど置いていかねばならないことを教えたのもあの人だった。嘘を、虚栄を、塗り重ねたところで何になる。人の手は、人が思う以上に小さいのだ。人の力は、人が思う以上に脆弱なのだ。
それを誰よりも理解しているあの人だったからこそ、あの人は神田とに一人でたって進むための力を教示し、その上で道を選ぶことを教えた。置いていかれるのは辛い。置いていくのも辛い。けれど置いていかねばならないから、それが嫌なら置いていかれないだけの力を身につければいい。そう笑ってくれたから力を身につけたのに、その終焉に待ち受けていたのは、その力でもってあの人を決して追いつけない場所へ置き去りにするという、選ばざるをえない選択肢だった。
この場所にも、再び足を踏み入れることはないだろう。壊滅的な打撃を受けたこの地を捨て去り、教団は新たなホームへと移る。それが耀ける未来への一歩なのか、暗澹たる未来への一歩なのか。知る術はないがとにかく、この森は身近な場所ではなくなる。だから、神田が再びこの地を訪れることはない。
「アンタのことを、置いていく。アンタとのしがらみも、契約も、全部ここに置いていく」
森はいつもの朝と同じく静穏な空気に満たされており、呟く声を遮るものは存在しない。自分の声を噛み締めながら、ぽつりぽつりと言葉を落とす。
「でも、アンタのことは忘れない。俺も――アイツも」
風が吹き、梢がしなり、鳥たちが一斉に飛び立つ。突如むせ返るほどの生気があふれた森の只中で、神田はただ一人静寂を纏う。
「アイツを置いていかずに、アイツに置いていかれないようにするだけで手一杯だ。だから、忘れないだけが精一杯だ」
悪ぃな。ちっとも悪びれた様子なくそう笑って、細めた双眸で遠い過去を見やる。
「ありがとう。そして、さようなら」
告げて踵を返し、神田は足を踏み出す。通い慣れた道を、もう二度と辿ることのない道を、一歩一歩踏みしめながら、歩く。胸に慣れない感傷が疼くことさえまっすぐに受け止めて、一歩ずつ。
どうしたって置き去りにするわけにいかない絆と感情を守るために、きっと後悔と絶望さえかき抱きながら歩くのだ。自分はその道を選び、彼女にその手をとらせたのだ。だから、何を置き去りにしても、最後までそれを貫くのだと。
改めて覚悟を胸に刻むその背を押すように、成就した約束を置き去りにした場所から、花の香を纏うやわらかな風が駆け抜けていった。
Fin.