許すことも守ることも
たちの帰還に遅れること五日で、アレンはいまだ目を覚まさない神田を伴って教団本部へと帰還した。一連の騒動が納まってから、エクソシストたちは相変わらずの多忙さで世界各地を飛び回っている。当然のように、アレンもまたそのまま別任務に回され、対する神田は医療班へと送られていた。
それまでの人知を超えた回復力を知っている医療班員は、見たことのない神田の様子に一様にいぶかしむ表情をみせたものの、もう同じだけの回復力がないという事実だけは揺るがない。エクソシストとして多少の身体能力強化は認められるが、それだけ。ゆえに、すぐさま思考を切り替え、重傷者への手当てをテキパキと進めていくのはさすがのプロ意識と呼べるだろう。
報告を受けてはいたが、微かな希望を残してもいたのだろう。実際に昏睡から目覚めてもいまだ自由のきかない神田の様子を『視察』したルベリエは、ただ溜め息をついていた。
「貴重な戦力がまた削がれてしまいましたね」
「うるせえ。これで俺たちは完全にお前らの狗だ。満足だろうが」
「まあ、それについては否定しません。一刻も早く回復し、優秀な狗として駆け回ってくれることを期待していますよ」
ベッドから起き上がれないながらも口の悪さと眼光の鋭さに衰えはない。肩をすくめて病室を去る背中に突き刺さる視線は、とても従順な猟犬のそれとはいえなかったが、優秀さは折り紙つき。適度な寛容さと妥協を持ち合わせることこそ、上に立つ人間の資質であるというのはルベリエの持論でもある。
やはり報告を受けてはいたがどこか信じられないという表情を浮かべて見舞いにやってきたコムイは、ベッドで憮然と横たわる神田に目を瞠ってから小さく苦笑し、今まで以上に気をつけて戦うようにとだけ指示を出した。
「申し訳ないんだけど、人手不足は深刻でね」
「わかってる。任務を渋ってみろ。勝手に飛び出してやるからな」
「うん、知ってるよ。でも、今は回復に専念してね」
動けるようになったら、また色々お願いするからね。そう告げる瞳の奥にひらめく悲哀に気づけないほど、神田は人の感情というものに疎くもない。そして、それをあえて告げてやるほど優しくもない。
ふいと逸らした視線は、次いでベッドサイドに置いていかれたイノセンスへと向かう。随分見目の変わった愛刀は、破損が酷かったため勝手に修繕に回されていたとのこと。無論、そのことに異論はない。任務をいくつか重ねただけで刃こぼれするようでは困るのだ。
「けっこう形が変わっちゃったけど、大丈夫かな?」
その視線に気づいたのだろう。うかがうように問いかけられて、神田は静かに「問題ねぇよ」とだけ返す。実際に手にしてみないとわからないが、刃渡りや重さ、握りの太さに変化がなければすぐにでも自在に振るえる自信がある。たとえ多少の変化があったとしても、少し鍛錬すれば馴染むだろう。見た目がどう変わろうと、六幻は神田を主として選んだ、神田だけの武器なのだ。
「動けるようになったら、一応チェックはしといてね。調整はいつでも受け付けるから」
じゃあ、お大事にね。そう言って立ち去る背中がいつも以上に疲れて見えたことは、やはり本人にあえて告げてやるつもりもなかった。
そんなこんなで入れ替わり立ち代り、それなりの人数の見舞いを受けるという、これまでのような医療班に長くとどめ置かれることのありえない体質では経験するはずのなかった日々を何とか潜り抜け、自室に戻ることを許されたのは帰還してから実に一月後のことだった。
長く居つけば、いくら生活に雑貨をほとんど必要としない神田でもそれなりに荷物が溜まる。着替えだの小物だのをさっさとまとめ、いざ廊下へと出てみれば、ちょうどやってきたのだろうと目が合う。
「早かったのね」
「今日から戻るって話はしてあっただろ?」
「そうじゃなくて、時間の話」
手伝おうと思ったのに、無駄足だったわ。ひとつ呼吸をはさんでそう苦笑を浮かべた少女には小さく鼻を鳴らし、けれど逆に神田は手間が省けたと考え直す。
「見るだろ?」
放たれたのは、抽象的な確認口調。それはあまりにも脈絡のない言葉だったが、対するは戸惑うこともなく、表情の苦味を色濃くする。
「ええ、そうね」
それでも、返す言葉はどこまでも神田の言葉を諒解したものであり、二人の間に流れる空気には微塵の齟齬も存在しなかった。
特に言葉を交わすこともなく廊下を歩き、二人して踏み込んだ神田の私室でまず視線が向いたのは、相変わらず机の上にある置物だった。どこに行こうと変わらない、殺風景な部屋。その中で唯一彩を放っていた、羊水の中で咲き誇っていた蓮の花はいまや無残に散り、花弁が容器の底に沈んで黒ずんでいた。
扉から一歩踏み込んだだけの位置に立ち尽くし、知らず詰めていた静かに息を吐き出してそっと目を伏せたの隣から、神田が足を踏み出す。
「ユウ?」
「終わり、だな」
凛と伸びた背中に問いかける声は細く、返す声は静かだった。腰に佩いた刀を引き抜く鞘走りの音。ガラスと金属が触れ合う高く澄んだ硬質な音。
上段からまっすぐ振り下ろされた刃に砕かれ、羊水を満たしていた器は床に散った。空気に触れた途端、黒ずみながらも形を保っていた花弁は散り散りに崩れ、その姿を掻き消していく。
床にできた染みを黙って見下ろしていた神田の隣にそっと追いつき、は静かに膝を折って容器の破片を拾い集める。服の裾が濡れることも厭わず、破片の切り口で指を痛める心配さえ見せず。
「お墓を作りたいの」
亡骸はないから、せめて代わりに。言葉にならなかった思いを汲み取ったのか、興味がなかったのか。神田はいつもと同じ調子で「ああ」とだけ呟いた。
ハンカチを広げ、丁寧に破片を包んで立ち上がったが振り返るよりも先に神田は踵を返す。すたすたと歩き始めた背中に若干の戸惑いを見せるが、それはほんの一瞬のこと。瞠った双眸をゆるりと細め、もまたそっとその後を追う。
「どこかいい場所を知らない?」
「いつも修練をしている先に、少し開けた場所がある」
「……お邪魔してもいい?」
「共犯者、なんだろ?」
ちらと視線を向けて思いのほか柔らかな声で呟き、神田はそれきり口を噤む。聞かれていないと思った言葉を知られていたことに目を瞠り、それでもは黙って神田の半歩後ろを追いかける。その距離を確かめるように、ゆらゆらと歩みにあわせて揺れていた二人の指先が、触れたのを合図にそっと繋がれる。
「だから、これからもそこにいろ。――お前は、いつもそこにいろ」
紡がれたのは、いつもと同じくそっけない言葉。終焉を迎えた契約の向こうには、二つの道が続いていた。そのどちらも選ぶことができず、足踏みをしていた少女を、青年はあっさりと追い越していく。
「うん」
追い越して、そして追い越しざまに問答無用でこうして手を引いてくれる。それが、口の悪い青年の、他の誰にも見せない許容なのだと知っていた。
Fin.