笑ってその手を払う理由
完全に意識を飛ばしている神田に応急処置を施し、茫然自失のを半ば引きずるようにしてアレンとブックマン師弟は戦場を離脱した。幸いなことにアクマの残党はもうおらず、順調に森を抜ける。
「ブックマン!」
「説明は後じゃ。とにかく街まで戻る。急ぐが、ついてこられよう?」
森の入り口で待ち構えていたリンクが呼びかける声に、淡々と返したのは翁だった。怪我人を背負い、やまない出血に背中からぽたぽたと血を垂らす傍観者見習いの表情はいつになく強張っているし、亡羊とした様子の娘の手を引く若き臨海者の仕草はいつになく粗雑。それらを一瞥しただけで、状況の異常さを察したのだろう。
「急いではほしいですが、あまり負担をかけないよう気をつけてください。ブックマンは、護衛を」
言って翁に並び、リンクは続ける。
「先行して医者を手配しておきましょう。街の入り口で合流するつもりですが、間に合わなかった場合はゴーレムで辿ってください」
「承知した。よろしく頼む」
「わかっています」
そのまま言葉通り道を急ぐ背中に迷いはなかった。ただ任務を忠実に、確実にこなすまっすぐな背筋。
似ていないくせに似ていると、血と汗と髪とに覆われて今は力なく同僚の背にもたれかかっている漆黒の背をちらと見やり、アレンはその在り方を思う。
迷いなく、脇目もふらず、そして目指す場所に辿り着いただろう彼は、今度はどこへ往くのだろう。
それは、誰も追いつけない速度で走る背中を見ているときとは違う、けれど同じ種類の不安が胸を満たすようで、やるせない溜め息ばかりが唇を擦り抜けていった。
宣言どおりに街の入り口で待ち構えていたリンクは、非常識な時間にもかかわらず既に臨戦態勢で待ち構える医師の許へと一行を案内した。そうして神田を専門家の手に委ねて、今なおどこか呆然としているもう一人の当事者を除く三人のエクソシストは、近くにやはり手配されていた宿に腰を落ち着け、監査官へと状況を報告する。
わかったのは、神田とがその人を殺すことを目的としていたこと。
それをよく思っていなかったこと。
その人がそれを望んでいたこと。
それまでの攻撃に一切の手心など加えていなかったくせに、最後の一撃は明らかにその人の誘導によるものだった。神田も躊躇わなかった。
だから、それが彼らの『約束』なのだろうと理解する。
「……とにかく、犯人と思しきその人物を殺害したということで間違いありませんね」
「証拠物品は残らんかったがな」
確認するように復唱したリンクに、ブックマンは溜め息混じりに嫌味を返した。もっとも、それは致し方のないこと。アクマの群れを破壊した現場の地面は、オイルと怨嗟とでひどい腐敗状態に陥っていた。イノセンスの原石を回収できたのは、ひとえにそれがダークマターと正反対の性質を持つ純粋な力の塊であるからに過ぎない。
「これは、いかがする?」
言ってブックマンが懐から取り出した神の結晶に、しかしリンクは一瞥を送ったきり、それ以上の関心を示さなかった。
「お預けします。本部への移送をお願いしましょう」
「承知した」
あくまで事務的な遣り取りを経て、その場での会合は終幕をみることとなる。
普段なら驚異的な治癒力によって傷の回復をみせるはずの神田に、なぜか今回はその奇跡が起こらなかった。治療はしたが危ないだろうと言われ、それでも翌朝には目を覚ますと踏んでいたエクソシストたちは、変わらぬ容態にそれぞれのやり方で慌てふためいた。ただひとり、ようやく我に返ったらしいだけは、寂しげに喜ばしげに、そっと目を伏せて「あの人がもういないから」と呟いた。
「私の独断で、詳しいことを話すわけにはいきません」
そう言っていたものの、何がどうなっているのかと焦るエクソシストたちに、はただ静かに神田の治癒能力が一般のエクソシストと同じ次元に落ちてきたのだとだけ告げた。
「リンク監査官」
「なんでしょう?」
「こんなところで、のんびりしている暇があるんですか?」
そのまま食い下がりそうだったラビとアレンをあっさり無視して、が話しかけたのは、アレンから少し下がった位置に控えていたリンクだった。
「報告の必要もありますし、人手も足りていないでしょうし。もう戻った方がいいと思うんですけど」
「そうですね。ご指摘のとおりです」
淡々と言葉を交わす横顔に、同様だの憂いだのの気配はない。過ぎるほどに静謐、過ぎるほどに静穏。いっそ不気味なほど落ち着き払ったに、アレンは何かとんでもない覚悟を決めているのではないかという予感に駆られる。だが、それを確かめる術はなく、問いかけるだけの隙さえない。
じりじりと焦燥を噛み締めるアレンを知ってか知らずにか、本部に電話連絡を入れるために席を外していたブックマンが戻ることによって、機会は完全に喪われる。
「ブックマン、室長は何と?」
「嬢には帰還命令だ。私とラビはその護衛。ウォーカーは神田の護衛に残れとのこと」
「わかりました」
端的な指示に、しかし即答を返したのはだけだった。どういうことかと、視線のみで雄弁に語るのはラビであり、理解が追いつかないのはアレン。リンクは相変わらずの無表情だったが、と同じく命令に否を唱える気はないのだろう。
「待ってください、ブックマン」
「何か?」
そこまでを理解したところで、アレンはようやく声を絞り出すことに成功した。慌てて汽車の時間だのといった細かな内容を話す翁を遮り、やはり表情の変わらない少女を見やる。
「残るのはボクなんですか? じゃなくて?」
「そういう命令だな」
「でも、だって神田は――!!」
「アレン」
呼びかけは、いつもと同じやわらかく穏やかな声だった。いつだったか、リナリーが春の陽だまりのような、と称していた。その喩えに何の疑問もなく納得したやわらかい笑みを浮かべて、は小さく首を振る。
「いいの。妥当な判断だと思うもの」
「でも! 一番心配しているのは君でしょう?」
「だけど、私には護衛を果たせるだけの実力がないわ」
さらりと返す言葉は冷厳な状況判断に基づくものだったが、声に滲む悲哀と悔悟は完全には消し去れていなかった。
「仕方ないの。私は負傷しているし、そもそも経験が圧倒的に足りないから、意識不明者の身辺警護なんて、とてもじゃないけど無理だわ」
当事者としての報告義務もあり、そうなれば一刻も早く本部へ帰還せよという命令は当然。さらに、居合わせるエクソシストの中で最も戦闘力が高いのはアレンであり、ブックマン師弟には行動の自由が約されている。よって、この配置こそが現状における最善の策。
並べ立てられた理屈に齟齬はなく、隙なく整えられた理論武装にアレンは反駁のきっかけが掴めない。
「これが、最良の選択なのよ」
だから自分は従うのだと。笑う表情はまるで似てもいないのに、その行動原理に、アレンは今なお生死の境目をさまよっているだろう青年の静かな双眸を垣間見た気がしたのだった。
Fin.