また逢いましょう
ひた走るのは木々の合間。蹂躙された下草から立ち上るにおいと、張り出す枝によって負う細かなかすり傷。しかしそれさえも気にはならない。
ざざっ、と、足音が響く。首筋にちりちりと感じられるのは充満する殺気。進むほどに濃くなるそれは決して心地よいものではないが、悲しいかな二人はそれにすっかり慣れてしまっている。
殺気の理由は様々。
あるいはそれは、無理やりに呼び覚まされた魂による生者への怨嗟。
あるいはそれは、自分たちを選ばれし神の使徒と謳う一族による愉悦。
あるいはそれは、辿りつく先が絶望と知りつつも足を止めない愚者への慈悲。
もっとも、そのいずれに対しても対処は同じ。刃を掲げ、力を呼び起こし、躊躇いさえも同時に切り伏せるだけ。
わかっているのは、もう機を逸するわけにはいかないというその事実。
奇妙な確信と焦りが、二人を追い立てる。
そして森の奥の湖に佇む人影。霧の発生源は空が晴れていた。ぽっかり開けた青空。その中央にて待ち受けていたのは、懐かしく、しかし決して記憶の果てへと色褪せることのなかった背中。
「約束を果たせるだけの力は、身についたのかい?」
急激な停止に耐え切れず踏みつけられた地が悲鳴を上げる。若干のずれを伴って響いた二つの音が霧散するのを見計らうように、かけられた声はやはり変わらず穏やかだった。
穏やかで、深くて、仄かに絶望の燻る声。たとえるならばきっと、その声は春の雨の空に似ている。薄暗く、掴みどころがなく、けれどどこか仄明るい、あの曖昧で幻想的な薄墨色の空。
「やってみなけりゃわかんねぇよ」
ばっさりと切り返す声は鋭利な銀月色。感傷はいらない。逡巡はいらない。慈悲も、懐古さえもいらない。彼らを繋ぐのは命を対価とした契約。命を救われた見返りに、命を刈り取り、命を返される。ああ、それはなんと崇高にして甘美にして、人の情感を超えた、冷厳たる絆であることか。
「それもそうだね」
「イノセンスがあるって聞いたが?」
「単なる噂だろう。私の興味はそれにはないよ。それに、破壊する力もないのに、伯爵が私を差し向けるとでも?」
くつりと笑って振り返った影は、無造作に、その破壊の対象から逃れえている例外たる神の武器を持ち上げる。
こけら落としのファンファーレは、高らかなアクマたちの絶叫に染められた。上空から、木立の合間から、あらゆるところに潜んでいたのだろう悲しき魂の監獄が放たれる。
「こんなに……」
「熱烈な歓迎の挨拶だな」
「伯爵が是非に、とね。華やかさに欠ける舞台はお嫌いだそうだ」
「相変わらずの趣味の悪さだと言ってやるよッ!」
感想は真逆ともいえようが、反応は同じ。土煙を残し、霧を切り裂いて蒼黒が跳ぶ。それを追って夜闇が飛ぶ。響くのは発砲音の重奏。幾重にも幾重にも、折り重なり、混ざり合い、二人のエクソシストが立っていた場所はあっという間に土が剥き出しの荒地と化す。
かの人ならざる存在の趣味の良し悪しなど、しかし影には関係ない。影にとっての関心の対象は、己が願いの成就に、妨げとなるか、助けとなるかのその基準だけ。
残像を追えば、後から爆音がついて回る。エクソシストたちの軌跡は、アクマたちの断末魔の軌跡。回想に耽るには騒々しかったが、しみじみと、己の心眼に狂いがなかったことを自賛する。
あの頃、子供らは幼かった。何も知らず、何もわからず、けれどすべてから決して目を背けようとしない幼く純真な傲慢さと勁さに満ちていた。その目前に世界の実状を突きつけたとき、彼らが絶望することを心のどこかで願っていたことを、影は自覚していた。
助けたいと、そう思う反面、自分と同じ絶望を少しでも味わえば良いと、八つ当たりよりも子供じみた衝動を抱いてもいた。
それが、どうしたことか。
子供の瞳は影が思ったよりもずっと強い光を弾いていて、絶望を飲み下して前を向いてみせた。ならばと思いつくままに渇仰を垣間見せれば、予想以上の強さを手にして還ってきた。
「強くなったね」
口の中で呟いた声は、破壊音に紛れてきっと届かなかっただろう。それでも影はそっと微笑む。
あっという間に斬り捨てられた最前列のアクマたちに、かつての希望がより強く輝くのを感じるから。見込み、掬い上げ、方向性を示しそして守った灯火が、己の魂を焼く業火と育ったことを知ったから。
「そんなことより、さあ。――始めようか」
裏切られ、裏切られ、絶望を感じることさえ失くして辿りついた先で、最後に希望に焼かれるのはこの上なく甘美なこと。なるほど、パンドラの箱の底には希望が残されていたのだろう。
だから影は、穏やかな、それまでとまるで変わらない声で、開戦の火蓋を切って落とす。
Fin.