千年の夢を共に
森の奥から爆音が轟く。地を揺らし、木々に悲鳴を上げさせ、動物たちを決死の逃走劇へと駆り立てる、それは殺意に満たされた麗しきプレリュード。
「わっかりやすいお出迎えだな!」
「軽口を叩くゆとりがあるなら、先行して様子見でもしてこい」
「それは遠慮するさ。これ以上の熱烈な歓迎は、身に余るってもんだぜ?」
「ラビ! ブックマンも! とにかく急ぎましょう!!」
叫びながら一層足に力を篭め、アレンは道なき道をひた走る。漂う微かなにおいにはいやというほど覚えがある。緋色のオイル。アクマたちの動力源が醸し出すにおいだ。
現場は近い。状況証拠から導き出された彼らの司令官の推測の正確さはいっそ恐ろしい。科学を武器に神秘を操り、呪術を土台に科学を進化させる鬼才。任務においても何にしても、こうも的中率が高いのだから、いっそ未来を読む力を備えているのではないかと噂されるのも道理というものだろう。
走って、走って。そして見えたのは梢を越え、上空に伸び上がる漆黒の光の滝。青空に映えるそれは日の光を反射して、きらきらと深い紅紫の奔流となって地に降り注ぐ。
「やる気満々、ってトコさ?」
ひゅうっと軽い口笛を器用にはさみ、うそぶいたラビの両目はしかし笑ってなどいない。緑に紛れて漆黒を見失い、予想通りの地響きに焦燥が募る。
ようやくというか何というか、木々が薙ぎ倒されたり切り倒されたり、とにかく視界が開けてきた頃。その向こうに見えたのは、アクマの大群と対峙する夜闇色の人影。そして、さらに奥で何やら人影と対峙する蒼黒色の人影。
よく似た色彩を纏い、流し、揃いの団服をなびかせて人影が走る。共に俊敏性を誇る二人をアレンたちが個別に認識できるのは、慣れのおかげでもあり彼らの武器が対なす存在だから。
漆黒を纏い、銀月を振りかざして駆けるのは神田。
漆黒を纏い、夜暗を振りかざして駆けるのは。
唸りをあげるイノセンスに逆らわず力を漲らせ、アレンは飛び込みざまに腕を一閃させる。軌跡上にいたアクマたちが、悲嘆と歓喜の咆哮をあげて四散する。
勢いのままさらに加速し、どう見ても最も不利な立場にいるだろう神田の許へ駆け寄ろうとしたアレンは、眼前に迫った黒光りする剣呑な盾に、慌てて足に力を篭めた。
「!?」
速度を殺しきれず前進した分だけ、きっちり間合いを保って纏いつくそれは適合者の意を受けて自在に姿を変える神の石。なぜ止めるのかと、疑問と困惑と怒りさえ篭めて呼べば、怒りと失望と懇願のないまぜになった叫びが返る。
「……邪魔、しないでッ!!」
振り払ってでも突破しようと構えを取りかけていたアレンの足を止め、さらには追いついてきたブックマン師弟の鉄拳が後頭部に炸裂するまでの時間を稼ぐのに、それは十分すぎるほどの切実さを孕んだ悲鳴だった。
声の鋭さに息を呑み、対峙する気迫に呑まれて目を見開いたアレンの見やる先、少女の背中ではついに均衡が破られる。周囲の喧騒などものともせず、ひたと互いを見据えて立ち尽くしていた二つの人影が距離を縮める。
追ったのは残像。認識したのは火花。残ったのは剣戟の音。
はっと我に返り、目の前で剣の形状へとイノセンスを呼び戻し、迎撃姿勢を整えるにアレンは口を開く。
「あの人が犯人なんですか?」
「そんなこと、知らないし関係ないわ」
だというのに、返されたのはにべもない返答。遠まわしに聞いたところで意味は無かったかと、溜め息をついたのは背後に立つ傍観者たち。
「嬢」
「たとえブックマンのお言葉があっても、今回ばかりは譲りません」
「それはわかっておる。契約、だな?」
改めて声をかけた翁に鋭い一瞥を送ったは、しかし予想に反して穏やかに引き下がられ、さらに掲げられたキーワードにそっと目を伏せて「はい」と頷く。
「なれば我らの立場もまたわかっていただけよう。見届けることこそ、契約ゆえに」
「見届けることを阻もうとは思いません。手出しも口出しも無用と、その条件さえ呑んでいただけるなら」
「わかっておる」
淡々とした遣り取りの締めくくりは、アレンを背中から羽交い絞めにするラビの腕だった。思わず首をのけぞらせて苦情を紡ぎかけた唇は、予想以上に鋭い一睨みに封じ込められる。
「じじいの判断をあおぐって、約束したさ?」
「でもッ!!」
「どっちにせよ、第三者が介入できるレベルじゃねーよ、アレは」
抗議の声を流し聞き、ちらと持ち上げられた視線は音源へ。
近場にいたアクマたちはひとつ残らず片付けた。しかし、木々の合間からじっとこちらの様子を伺う気配は消えないし、アレンの左目は蠢く魂を捉えている。
元の数がどれほどだったのかはわからないが、残骸の量からも、決して露払いが不十分だとは思えない。それでもこれほど残っているということは、神田の相手が、それこそ桁外れのアクマの群れを率いていたのだろう。
付き合いが浅いながらもそれなりの持久力の持ち主と認識しているが呼吸を整えているのを横目に、アレンはイノセンスを発動したまま拳を握り締める。
「……どう、しますか?」
「まずは、残りのアクマの一掃が先じゃな」
「妥当なところさね」
頷きあった師弟の指示を待つまでもなく、苛立ちを乗せた八つ当たりにまかせてアレンは駆ける。哀れみを内包した怒りとはかくも複雑怪奇な感傷をもたらすものかと、何度となく経験した痛みにも、眉根が寄るのを抑えられない。
アクマの断末魔の向こうに聞こえる魂の安堵の声を心の支えに、爪を振るう視界の隅には少しずつ切り裂かれていく漆黒の塊。攻撃でか防御でか、束ねられて一本の流れを作っていた蒼黒がばらりとほどける。
思わず足を踏み出しかけたのはいっそ脊髄反射。それをとどめるのだから、いったいこの青年はどれほどの実力を隠し持っているのかとアレンは背筋を伝う冷や汗に思う。
「約束、忘れたさ?」
たとえば、烈火のごとき怒りと吹雪のごとき怒り。どちらの方が恐ろしいのだろうか。凪いだ声音の静けさは、ただ約束の重さをアレンに思い起こさせた。
そう、それこそはこの場で彼らに関わる上での最低限の条件にして絶対の境界。越えたらば最後、彼らは二度と戻らないと、この短い距離の中で一体何度諭されたことか。
見たところ、結い紐が解けただけでまだ神田にも余裕がある。教え子の成長具合を見るように、ただ攻撃をいなし続ける影にもっと余裕があるのはいたし方のないことか。
アクマを屠り、解放しながらもアレンの意識は絶えず仲間の動向に向けられている。そんな器用な芸当ができるのは、取り囲んでいるのがすべてボール型のアクマだから。照準もろくに合わせず、闇雲に弾丸を撃ちつけてくるだけのアクマなど、海を越えて日本まで辿りつく旅を経たアレンたちにとっては強敵とは言えない。
即席の連携も見事にアクマを一掃し、最後の一体にとどめをさした頃にはあたりはずいぶんと見晴らしが良くなっていた。その体から発される毒ガスにあてられたのか、ぶすぶすと燻る下草になど目もくれず、見やる先ではちょうど、影がふわりと跳躍して距離を取り、刃先を地に向けている。
「強くなったね」
やわらかく、包み込むように呟いた表情は慈愛に満ちていた。目を眇めて同じく距離を取った神田と、わずかに距離を置いて見守るを眺め、その人は眉尻を下げる。
「――ずっと、アンタの背中を追っていた」
対して答えたのは、切っ先を下げた神田の固い声音。押し込め、押し殺し、飲み下したその感情は一体どんな色に染められているのか。激情もあらわに駆け抜ける背中の向こうに垣間見えるだけだった深淵が、ひたひたと触手を伸ばしていく。
告白は、ずっとアレンが不思議に思い、問いたいと願い、けれど許されないと戒めていた疑問の答の一端だった。はっと息を呑んで見やる先、神田は表情と呼べる一切を削ぎ落とした瞳で影を見据えている。
「私が進むのは破滅の道。お前たちが辿るべき道ではないよ」
「破滅でも良かった。世界の命運など知ったことか。俺は、俺の見渡せる限りの“世界”が守れればそれで良かったんだ」
宣告は、世界を破滅から守るべしとされ、希望を一身に背負うエクソシストらしからぬ断言。誰よりも理想的なエクソシストであり続ける青年を知っていればこそ目を見開いたアレンに対し、影はしかし、くすりと楽しげに笑うのみ。
「お前は変わらないね。その一途さは私の希望であり、そして絶望の鏡写しだったのだよ」
すまないね。追うように仕向けたのは私なのに、私はそれに傷ついていた。
声は静かで、凪いでいて、やわらかかった。無造作に握られた武器は輝きを増していくのに、殺気めいたものは一切感じられない。背中合わせの矛盾が、静かに泣いている。
「終わりにしよう。あの時、お前たちを拾ったのが間違いだったのかもしれない」
「それは俺たちが決めることだ。生きてきた時間を悔やむか誇るかなんざ、死ぬ瞬間までわからねぇよ」
「あなたがどう思おうと、私たちは戦う力を得た自分を貶めるつもりはありません」
言い切ったのは神田。言い添えたのは。二人が訴えるのは、理解と同意と、そして悔やまないでほしいとの懇願。しかしそれは伝わらない。伝わっているのかもしれないのに、影は受け止めない。その人は、それを認めない。
「そうか。ならば、より深い絶望を知る前に、このまま戦場で散るといい。それが、私からお前たちへの最後の慈悲だよ」
言って低く構えを落とし、その人は小さく何ごとかを呟く。
何が起きるのかと気を張り詰めさせるアレンやラビ、ブックマンとは対照的に、神田とはそれを予期していたような動きでそれぞれ迎撃と防御の動作をみせる。
詠う声は凛と澄み切り、荒れ狂う風とそれにしなる梢のざわめきを縫って場に居合わせる全員の耳に届く。しかし、その意味は取れない。音の連なりが淀みなく美しいことはわかるが、紡がれる単語は誰にも理解が及ばない。
長柄の武器が振り切られるその寸前、アレンは攻撃の只中に突き進む漆黒を見て悲鳴に近い声でその名を呼ぶ。それは無謀。それは暴挙。しかし、荒々しくも神々しい暴力は神田の身には及ばない。掲げた刃と、その前方に繰り広げられる闇色の光が、唸りをあげて襲い来る力に拮抗する。
そして、それはほんの一瞬の出来事。振り切られ、勢いを殺さないまま戻された刃が神田を脇から切り裂き、加速の勢いを乗せた刃が突きというにはあまりに禍々しい威力をもってその人の胴に突き立てられる。
散った赤銅色が誰のものかなどわからない。脊髄にまで達そうとしていた刃は神田の背にひたりと追いついたの刃によってその寸前で受け止められており、攻撃の線上では一切の遮蔽物が根こそぎ抉り取られている。
「アンタに、」
掠れた声を絞り出したのは神田だった。喘鳴がひゅうひゅうと遮るが、思いのほかしっかりした声だった。
「アンタに会えるまで、生きていられるかが不安だった。約束を果たせなくなることが怖かった」
だというのに、告げられたのはいつにない弱音だった。何があっても動じず、揺るがず、誰よりもひたむきに己の定めた道を往く青年がはじめて垣間見せた、きっとそれは心の奥底のやわらかい部分。ああ、彼もまた人の子なのだと、場違いな情動が沸き起こるのを感じながら、アレンは今耳にし、目にするすべてをこの場限りの記憶とすることを胸に誓う。
「置いていかれることは辛い。いつまでも、いつになってもね。失えば喪うほど、心は逆に重くなる」
対する影は、致命傷だったろうにその声は神田よりもずっとしっかりしており、顔色からも速やかな治癒が起こっていることを髣髴とさせる。人としてはありえない、それは、その人が人の枠を逸脱している証。
「解くかい?」
穏やかな問いに、息を呑んだのは。息を吐いたのは神田。ざわりと何かが広がっていく。その音に紛れてしまい、恐らく返答したのだろう神田、もしくはの声は聞き取れない。ただ、その人がすいと両目を細めたのだけは見て取れる。
「でも、そうだね。最後にもうひとつ、私のわがままに付き合ってもらおうか」
返答などいらなかったのだろう。言い置いて口の端を吊り上げ、そっと両目を閉ざす。その次の瞬間、それは瀕死の重傷者とは思えない早業だった。
握る右手に力を篭めて神田の腹から得物を引き抜き、呆気にとられるが体勢を崩すのに合わせて振りかぶる。傷口と口元から血を撒き散らし、よろめきながら下がった神田はおぼつかない手つきでそれでも六幻を振るい、刃を受け止める。
慌ててアレンとラビが加勢に入るべく重心をずらすのと、噛み合った刃の片方が砕けるのは同時。勢いをそのまま、慣性の法則に従って六幻は相手の胸元を横合いから切りつける。
驚愕に声を漏らしたのは誰だったのだろう。
ひゅっと息を呑む音に続き、バランスを崩した神田が地に倒れ伏す鈍い音がやけにゆるりと鼓膜を打つ。その正面で闇が弾け、光が収束する。それは、一瞬の出来事。
自覚のないまばたきを終えたアレンが見たのは、血溜まりに沈んで蒼白になっている同僚と、その傍らで呆然と座り込む同僚と、目を見開いて立ちすくむ同僚。そして、回収した覚えのないイノセンスの原石を拾い上げる、すべてを見つめる傍観者の姿だった。
Fin.