朔夜のうさぎは夢を見る

ひとりとひとり

 言い渡された任地は、ひたとした静寂に満たされた小さな森だった。先行しようとするアレンを引き止め、せめてブックマン師弟に合流するように、とのリンクの指示は適切だったと言わざるをえまい。
 静かな、しかしそこはえもいわれぬ停滞感に満たされた森。はじまりも終わりも、すべてが否定される空間。
「嫌な緊張だな」
 沈黙を破ったのは、ブックマンだった。そっと押し殺した声で、静寂を乱すことを憚るように呟く。
「気配が薄すぎるさ。いかにもな罠だな」
「罠?」
「あれ、アレンは聞いてないさ?」
 あまりの言いように眉をしかめたアレンは、逆に不思議そうに聞き返されて表情に怪訝さを上乗せする。
「この一件、多分ユウたちをおびきだすために仕組まれた罠だ、って結論に至ったんよ」
 だからこその増援の派遣なのだろうとブックマンが締めくくる。
「油断するなよ、ウォーカー。この先、一手でも選択を誤れば、我らは味方を敵に回す」
「わかっていますよ、ブックマン。だからこそ、ボクが合流する前に片をつけたかったというあなたの気持ちも」
 溜め息まじりの恨み節になったことには目を瞑ってもらいたいとアレンは思う。
 自覚はある。それを正しいと信じて生きているのだから、否定されればいい気分はしない。ただ、自分は思うよりも先に体が動くタイプであり、こと今回の一件に関して、その行動のひとつがどれほどの致命的な痛手になりうるかも理解している。だからこそ、状況判断は基本的にブックマンに任せるという条件で同行しているのだ。


 ついと流された視線は静かで、そこに含まれる色味は判じられない。了承したのか、いなすことにしたのか。場において最年長のエクソシストは、ただ静かに「くれぐれも頼むぞ」と呟いた。
 作戦はいたってシンプル。現場に赴き、戦況に応じて援護を入れ、全てが終わってから全てを余さず回収して撤収。優先されるべきは後半部分。間違っても、先走り、己が命を散らすことは許されていない。
「監査官殿にはこちらでお待ちいただきたい」
「……私は同行するように、との命を受けておりますが?」
「いたずらに相手を刺激するような真似は避けたい。神田は聡い。過剰な監視は、見限りを招く要因となろう」
 持参した地図を片手にアレンに地形の説明をしている弟子の隣で、ブックマンは冷ややかに宣告する。
「付き合いの浅い我らでもわかるのだ。そのぐらい、予想できよう?」
「確かに、一理ありますね」
 食い下がるかと思われたリンクは、しかしアレンの予想に反して素直に引き下がった。納得の色合いの深い声音は実にしみじみとしており、妙なところで神田の教団への在籍年数の長さを思い知らされる。
 あの、不器用で一途でわからずやな彼は、そのすべての時間を願いの成就のためだけに費やしてきたのだろう。最も付き合いの短いアレンでさえ知っている。彼は彼の目的のために、アクマの破壊を手段として用いているに過ぎないのだと。


 良くも悪くも独立独歩を地でいくティム・キャンピーに案内を任せるわけもなく、歴史の傍観者はその後継者にゴーレムによる探知を命じる。
「ブックマン」
 しばらく周囲に視線をさまよわせる素振りをみせてから、ゴーレムは方向を定めてふわりと舞い上がる。それぞれの武器を確かめ、後を追いながらアレンはようやく、疑問を口にする。
「あなたがわざわざ出てきたのは、なぜですか?」
 アレンでも思い当たる理由ぐらいはある。
 ひとつ、たまたま教団に居合わせたこと。
 ひとつ、ラビの性格が、神田たちを見捨てるにはあまりにも情が篤いということ。
 ひとつ、現在の教団において、急ごしらえでないツーマン・セルを実践できる戦闘派のエクソシストであったこと。
 どれもありそうな理由であったし、恐らくは理由の一端であるのだろう。だが、決定打ではない。根拠があるわけではないが、アレンはそれがこの智慧深く経験に富んだ老翁を動かした絶対の理由ではないと知っている。


 しばらくアレンへと表情の読めない視線を流しながら走っていたブックマンは、ふと息を吐いて前方を見据えなおした。実年齢は既に八十を越えているとのことだったが、その体捌きに衰えは感じられない。鋭く、冷ややかにして底が見えない、何かを超えたその在り方。
 垣間見えるのはアレンもよく知っている青年が常に身に纏う空気。きっと、彼が老成すればよく似た、しかしもっと容赦のない透徹たる空気を纏うようになるのだろう。そして彼の隣に立つ少女が、より深みと凄みを増したこの空気を纏うようになるのだろう。
「見届けるべきと、思ってな」
 与えられたのは、およそ“ブックマン”らしからぬ答だった。感情を排し、現実を事実として記録し、脈々と正確に受け継ぐことに特化した、世界の枠から外れた一族。ゆえに世界は彼らを受け入れ、ゆえに彼らは世界に居場所を持たない。
 いまだ一人前と認められていないラビならともかく、長くブックマンとして世界を渡り歩いてきた翁に、それはあまりにも似つかわしくない理由。しかし、そのらしくなさにこそほっと息をつく己がいることを、アレンはまた正しく知っている。


「我らの一族の記録に残りうる、これは一大事となるやもしれぬ」
 適合者である可能性の高い伯爵の信奉者。
 例外を認めないヴァチカンが受け入れた特例。
 ブックマンでさえ単独では立ち入ることのできなかった東の島国から、力を持たない子供を連れ出したその奇跡。
 理由はよどみなく紡がれ、美しく飾られてアレンの耳へと送り届けられる。
「それに、残らなんだとしても、私たちは記憶することができる」
 そして最後に付け加えられた、それこそはアレンが欲していた言葉。
 きっと、誰よりも速く終焉へと向かって疾駆する彼を止める術は、誰も持っていない。彼女が止めようとしないのに、走り往く彼を支えようとしているのに、一体誰に止める権利があるというのだろう。
 だからアレンはせめてもの妥協案として、彼の戦う隣に立てればいいと願ったし、その結果として、彼が終焉に辿りつく日が一日でも遠くなればいいと願っている。叶うなら、その前にこの大戦に終止符が打たれればいいと希っている。


 同じように、それが見守ることしかできない“ブックマン”が許容した最大の譲歩であり、不器用な仲間へのさりげない気遣いなのだろう。
 情をはさんで関わってはいけない。それでも、芽生えはじめた情は生半なことではかき消せない。ならばと、全ての歯車が完全に狂う前に妥協案を示すのは、さすがは年の功といったところか。
 気まずそうに、恥ずかしそうに、くすぐったそうに。走りながら器用に目を伏せた次期ブックマンをちらと見やり、アレンは小さく「そうですか」と呟く。
「そう、それだけのことだ、アレン・ウォーカー」
 翁の声は、常に深い。翁の言葉は、常に重い。だからこそその翁が己の常を裏切って示してくれた情愛に、アレンはいっそ溺れてしまいたいと思う。
「エクソシストもブックマンも、所詮その手で抱えることができるものなど高が知れている。なれば、その範疇を見誤らなかったものこそが、己の生き方を過たず貫けるということ」
 極端ではあるが、最たる例だな。そう笑う声は穏やかにして静謐。だが、アレンはそこまで悟りきれていない。だから足掻くし、文句を言われても刀を突きつけられても、その目の前に立ち塞がるのだ。それが、たとえ彼の矜持を傷つけることに繋がるのだと察していても。
 だから、間に合えと願って走るのだ。
 手出しをしてはならない戦いに乱入し、自分のわがままを貫くために。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。