朔夜のうさぎは夢を見る

悲しみは静かに訪れる

 病室からが抜け出したことを神田が聞いたのは、偶然の産物だった。リナリーがいるというただそれだけの、ともすればあまりにくだらない理由によってしょっちゅう病棟に入り浸っている科学班室長の姿は、本来あってはならないものなのだろうが見慣れすぎてしまったため気にも留めない。ついでに、神田にとっては鬱陶しいことこの上なく、また言葉を額面通りにとっていいものかと邪推したくもなるが、珍しくも教団に滞在している元帥が見舞いに訪れている光景もあまり気にならない。
 ただ、関係者以外立ち入り禁止を徹底しているといえ、廊下で話し込むべきではないだろう話題を口に上らせているのは不注意だと、そう思った程度だ。
 気配を殺したまま即座に踵を返し、しばらく走ってから仕組まれていた可能性に気づいたが、それもどうでもいいことだった。重要なのは、その可能性を自分がまだ知らなかったということ。そして、可能性を既に確たる未来と感じている自身がいるということなのだ。


 焦りにか不安にか、とにかく揺らいだ気配が十分遠ざかるのを待って、クロスはわざとらしく息を吐く。
「これで、小娘の居所は程なく知れるわけだが」
「……神田くんには、きっとわかるよね」
 応える声には、殺しきれないやりきれなさが滲んでいた。飄々とした元帥とは対照的に、疲れきった息を吐いてコムイは視線を地に落とす。状況からして、可能性は十二分。そして、どうやら対象の最も近しい相手であろう神田は、そのことに否定的な感情を抱いているらしい。ことがややこしく拗れかねない予感は、どんな場面においても歓迎できるものではない。
「ちょうどいいから、ついでに覚悟を決めさせてやれよ。ヘブラスカにイノセンスを放すように言っとけ」
「予告なしにいきなり? それはさすがに、ちょっとキツくない?」
「結果が同じなら行き着く場所は同じだ。屁理屈を捏ね回すな」
 吐き捨てるように告げられた容赦のないセリフに、コムイは目を見開いてから溜め息をこぼす。時も場合も相手も考えない物言いをする男だが、クロスの言葉はいつだって真理を突いている。諦めと同時に相手の言い分を素直に認め、コムイは提言に従うべく首に下げていた無線機を口元へ運ぶ。
 こうなることは、無論科学班室長とて予測の範疇内。ゴーサインを告げるだけで、すべての歯車が回り出す。


 あとは報告を待っておけと、言いたいことだけ言い置いてどこかへ去ってしまった男を見送り、コムイは科学班室に戻った。戦況が大きく変化した今だからこそ、なすべきことは山のようにある。とはいえ、目下の懸念事項は現状で動くことのできるエクソシストがほんの一握りしかいないこと。具体的に言ってしまえば、科学班室長の権限の下で指令を下せる相手は、例のごとく驚異的な回復を遂げた神田しかいない。
 元帥たちを含めても、エクソシストは両手の指で足るほどにまで減ってしまった。しかも、動ける神田を含め、イノセンスの修繕さえ間に合っていないのが現状。それでも戦闘が起きれば、彼らに頼らざるを得ない。どうにもならないパラドックスに胸を焼かれながら、コムイは必死に知恵を絞る。前線に彼らを送り出す司令官の使命は、より高い勝率とより高い生還率に裏打ちされた作戦を立てることに他ならないのだ。
 戻った途端、待ってましたとばかりに差し出された方舟のデータに目を通していたコムイは、部屋の入り口から広がるざわめきにゆるりと目を上げる。予想はついていたし、それはコムイが仕掛けた罠の向こう側の結末でもある。人の手に負える選別でないことは重々承知の上だが、騙したようで気が引けて、顔を上げる前に一拍置いたことには気づかれていなければいいと願う。
「コムイ」
 呼ぶ声は静かで、何かによって擦り切れているような気がした。ぼろぼろになった、気弱な声。それまでに聞いたことなどない響きに目を丸くしている室内の面々には一切構わず、扉の向こうから姿を現した神田はまっすぐ足を運ぶ。


 病棟から自室に戻ったとはいえ、本調子とはいいがたいのだろう。団服ではなく質素な私服に身を包んでいることもあいまってか、青年の細さが強調される。こんな華奢な肩に、世界の命運の一端が圧し掛かっているのだ。
「どうしたの? っていうか、くんは医療班に連れて行ってよ」
 連れてくる場所を間違ってるよ。白々しいとは知りつつ、コムイは神田の後ろを歩いている少女に目をやって深々と溜め息をついてみせた。病棟の患者用にあつらえたワンピースとカーディガンに身を包む少女の顔色はもう心配するほどでもない。それを視認してほっと息を落とし、それからざわめきの最も大きな原因だろう手荷物へと目をやる。
 部屋の反対サイドに立っていたはずのリーバーが、コムイの隣にやってきて掠れる声で「室長」と呼びかける。続かなかった言葉が指し示す内容は、言われるまでもない。神田が常に腰に佩くそれとよく似たデザインの、それでいて対照的な純白の刀。元の位置で立ち尽くしていたコムイから二歩ほど離れた場所で足を止めた神田は、今や部屋中の視線を集めているその刀をちらりと流し見て顔を前に戻す。
「医療班には声をかけてきた。ヘブラスカのところに連れて行け」
 具体性を欠く端的さだったが、それは紛れもなく新たな使徒の誕生を示唆する言葉。ことここに至ってさらに降ってきた天の恵みに、科学班室には快哉が響く。神はまだ、人の子をお見捨てになってはおられなかった。


 希望と羨望で織り上げられた視線の中心で、は控えめに微笑みながら小さく声の主たちへ会釈を返す。大事に大事に、その胸に抱き込まれているのは穢れも曇りも知らない眩い刃。自分の義務は果たしたとばかりに黙り込んでしまった神田の隣から一歩踏み出し、少女はふわりと笑みを深める。
「以前は、私が適合者でないことを惜しんでいただきましたね」
「うん、そうだったね」
 示されたのは、闇を纏うエクソシストの青年がまだ少年だった頃の会話の記録。すぐさま諒解して微笑むコムイの表情には、どことない寂寥感が拭いきれていない。表情がぎこちなくなるのは、果たしてなぜなのか。内心の動きには極力目をやらないように注意を払い、コムイは科学班室長としての己を意識する。
「だから、今度は適合者である君を改めて迎え入れるよ。――ようこそ、黒の教団へ。僕らは君を歓迎するよ、くん」
「改めて、お世話になります。コムイ・リー室長。一日も早くエクソシストとして戦場に立てるよう、尽力したいと思います」
 儀礼的な色合いの強い挨拶には、理想的な言葉を。ゆったりと腰を折り、深く頭を下げてからはそっと両目を細める。
「悔やむのは、筋違いですし傲慢です」
 喜びと興奮に呑まれ、口々に希望を語り合う科学班員たちの中で、静かな少女の声は不思議なほどよく徹った。殺しきれないあらゆる表情を凌駕した驚愕の向こう側で、しかし、その声を聞いていたのはほんのわずかな人間だけなのだとコムイは知る。
「できるなら、言葉通りどうか祝ってください。私は、絶望ではなく希望を手にしたのですから」
 浮かべられたのは、無垢で透明で静謐な微笑み。その後ろで昏く滲む哀絶をそっと視界の外に追いやって、コムイは歪なことを痛感したまま精一杯の笑みを送り返した。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。