愛という名の欲望で
「帰ってください」
「断ります」
「いいから帰ってください。この先は危険です」
「危険は承知の上です。これまでの任務で、私の力量は理解したはずです」
「これまでとここからは違います。足手纏いです。帰ってください」
「何を言っても同行します。それが私の『任務』です」
ひくひくと、アレンのこめかみに青筋が浮きはじめたのは無理からぬことだろう。
教団の威光を存分に活用して確保したコンパートメントは当然のごとく一等車両。狭くないはずなのに、やけに狭苦しく感じるのは同乗者が無駄に堅苦しく、重苦しい空気を振り撒くからに違いないとアレンは深く溜め息を落とす。
「……わからずや」
「それはこちらのセリフです。アレン・ウォーカー、君は自分が任務に出る際の条件を忘れたのですか?」
「ハイハイ。覚えてますよ」
「返事は一度」
これみよがしな溜め息にも微塵の動揺もみせない監査官に、アレンは面倒臭さを前面に押し出した声で「はぁい」と返す。
互いに互いの言い分は理解している。だからこその問答であるわけなのだが、疲れるものは疲れるのである。
「君は私をおちょくっているんですか?」
「そうです。だから、愛想尽かして帰ってくれて結構ですよ」
ふふふっ、と。向き合わされた笑みは不敵。口元も目元も弧を描いているのに、口端はひきつっており、目の奥は殺気だっている。
「私がいなかったら、君はどうやって目的地に辿り着くんです?」
「ボクだって地図くらい読めます」
「もし、仮に、万が一。君が読める地図があったとして、君は読んだ通りに道を進めないではないですか」
醒めた視線もあえて強調された修飾語も不愉快極まりなかったが、事実を並べたてられたアレンになす術はない。事実は事実。起こってしまった事象は覆せないのだ。
「お気遣いいたみいります。でも、大丈夫ですから」
「大丈夫ではないから言っているんです」
睨み合いは終わらない。口論は堂々巡り。そして、目的地は着々と近づいてくる。
不毛な沈黙の睨み合いの中、先に息をついたのはリンクだった。
「勘違いしているようだから言っておきます。私は、同行するだけです」
「え?」
鬱陶しそうにアレンを見やりながら、若き監査官は言葉を継ぐ。
「だから、同行するのみ。私の任務は、あくまであなたの監視です。神田・ユウにも・にも、手出しも口出しもしません」
それは、監査官からの最大限の譲歩なのだろう。その遣り口に不満を覚えることは少なくないが、アレンはリンクが嘘をつかないことを知っている。惑わすような発言や思わせ振りな行動、隠し事も山のようにあるようだが、偽りだけは口にしない。
ならば、手出しも口出しもしないというその宣言に、疑いの入る余地はない。
「あなたもよく知っているでしょう。神田・ユウは干渉を嫌う。下手な手出しをして優秀なエクソシストを失うような真似は、我々としても犯したくはない」
「だから、静観すると?」
「さもなくば裏切りも辞さないと宣言されているのですよ」
ダメ押しの一言の重みは圧倒的だった。
なるほど、いかにも神田の言いそうなセリフである。だが、意外でもあった。神田なら、予告などという面倒な手間は惜しむ気がしたのだ。
「……あなた方がそんなセリフにほだされるとは、正直なところ意外です」
悔し紛れのコメントは、人を食ったような笑みを前に攻撃力を削がれて地に落ちる。何を馬鹿なことを。そう雄弁に語るリンクの口元の円弧が、ゆるりと開かれる。
「ほだされたのではなく、取引きですよ」
彼らは、少なくとも君よりは頭が切れるし、現実を知っています。
続けられた声に含まれるひそやかな笑みは、誰に向けられたものか。アレンの愚直さにか、神田の一途さにか、リンクたちの狡猾さにか。色味を明らかにしない笑みは、ただ静かに大気に溶ける。
「大義の前に必要な犠牲と、そのために差し出せるものを知っていただけです。極めて有効な対価と、その使い道を」
「最低ですね」
「最良ですよ」
吐き捨てたのはアレンの信条ゆえに。受け流したのは教団の在り方ゆえに。そして、当事者たる青年はそのすべてを下らないと鼻で笑って切り捨てるのだ。
思いだけが空回る。それぞれの思いが、どうしてこうも噛み合わずに擦れ違うのか。もどかしさにじりじりと胸の奥を焼かれるアレンは、それでも自覚ぐらいは持っている。このもどかしさもまた、かの青年の眉間に一層深い皺を刻む要因にしかならないことを。
「最寄りの街まで」
「はい?」
すうっと息を吸い込み、腹の底に蟠るすべての思いを押し殺してアレンはきっぱりと宣言した。
「だから、最寄りの街までならば妥協します。でも、現場には来ないでください」
来たらきっと、殺されますよ。
その推測は憶測ではなく予測。短い付き合いだが、彼の思考回路は読み取るに易い。中央庁の監査官など、目障りだとしか感じないだろう。
「わかりました。それが妥当なところでしょう。報告は抜かりなくお願いしますよ」
「わかっています」
心得たもので、リンクはそれ以上の要求を突きつけなかった。その変わり身の素早さに、自分以上にかのエクソシストを理解しているのだと声高に叫ばれているような気がして、アレンは沸き起こる絶望から必死に目を背けた。
Fin.