朔夜のうさぎは夢を見る

歯車は止まらない

 教団本部に戻ったラビがまず感じたのは、何ともいえない嫌な違和感だった。ざわざわと落ち着きがないのは、自身を呼び戻した命令の根幹となっている事件が主要因だろう。
 だが、それだけではないと直感が告げる。
 あるいは虫の知らせとでもいうのだろうその勘を信じるのは、戦場を駆け抜ける過程でそれが正しいとそれこそ直観してきたから。見やれば、横を歩く師もまた同じような複雑な表情を浮かべている。となれば、下す判断も同じだろう。
 疲労だけではない複雑な溜め息をこぼし、ラビはブックマンに問うこともなく、まっすぐ司令室を目指す。


 案の定、重厚な扉の向こうは廊下以上の違和感に満ち満ちていた。飛び交う声を拾い歩けば、各地との連絡を急ぐ傍ら、定期的に特定のエクソシストを呼び出そうと躍起になっている。
「まーた何かやらかしたんかね」
「おそらく」
 呆れ交じりの弟子の独り言に静かに頷き、しかし歴史の傍観者は己の見つめてきた観察結果に基づく判断を付け加える。
「だが、こと任務に関して、神田の行動に意味がないはずがない」
 ゆえこそのこの騒ぎであろうし、ゆえこその関心が湧く。
 繋がらない連絡と、未だ戻っていないという事実と、司令室のこの慌しさと。誰よりも何よりも、任務に忠実であり、エクソシストという存在を理想的に体現する若き適合者が、この騒動を知らないはずがない。知っていてなおと我を貫くのであれば、それは誰にも明かされなかった神田の抱く深く暗い情熱に繋がる何かがあるということだろう。
「犯人との繋がりあり、ってコトさ?」
「断言はできん。だが、可能性は大いにあろう」
 お前もそう思わんか。横目に視線を投げかけられ、ラビはちらりと肩を竦めながら同意を返す。
「じゃなきゃ、ユウが命令に反抗するわけがないさ」
 闇を纏うエクソシストが最優先するのは任務の完遂。その向こうに掲げられるのは、関係者の命の尊さでもエクソシストとしての誇りでもなく、ただひとつの願いにして目標。
 教団に所属し、ある程度以上の関わりを神田と持ったものならば誰もが知っている。神田は、ただ『あの人』とやらに会うためだけに戦場を駆け抜けているのだと。


 のんびりと部屋を縦断しながらの師弟の会話は、司令室の主に辿りつく二歩手前で終結。普段ならばその会話を小耳に、混ぜ返すような言葉遊びで始まるはずの科学班室長との会話は、しかし、珍しくもラビからの切り出しとなる。
「何かすっげー騒ぎだな」
「ラビ、お帰り。ブックマンも、ご無事で何よりです」
「途中、アクマとの遭遇もなかったからな。かすり傷ひとつ負うておらん」
 任地へと発ち、到着しないうちに帰還命令を出されたのだから当然といえば当然。不完全燃焼に終わったことからくる贅沢な倦怠感と、移動の疲労だけが滲む肩を軽く回し、ラビはいたずらげにそっと目を細める。
「で? 今度はユウ何したんさ?」
「……耳が早いね」
「これだけ騒いでんのに、気づかないわけないっての」
「まぁ、それもそうか」
 わずかにのぞいた不本意の色は、すぐさま納得に取って代わられる。
 完全に隠すつもりならもっと徹底的に秘密主義を貫けるのだから、この騒ぎはエクソシストには漏れても構わなかったのだろう。回りくどいことを、と。よぎる感想を胸の奥に沈めた弟子の隣で、傍観者たる翁は静かに言葉を重ねる。
「さて、今回の帰還命令といい、神田の件といい。我らの記録に刻むべきか否か、判断をさせていただきたい」
 それは、たとえ黒の教団の司令官という立場を駆使しても抗うことが許されない、世界の枠を超えた存在からの絶対命令だった。


 長くなるからと、ソファを勧めたコムイの横顔は静かだった。ただし、あまり性質の良い静けさではない。いろいろなものを無理矢理押し殺したがゆえの、反動による静けさ。
 どうやらかの同僚は、思った以上の厄介事を振り撒いてくれたらしい。ラビたちとは違った意味で表情を隠すことに長けた科学班室長の静かな焦りと苛立ちを正確に読み取り、傍観者見習いは純粋な好奇心からごくごくわずかに口の端を吊り上げる。
 予想を裏切られることは、嫌いではない。それは、この世界にまだ飽きずにすむことの証明なのだから。
「して、何が起こっておる?」
「ボクらにも、まだはっきりしたことはわかっていないんです。ただ、帰還を要請した際にも言いましたよね?」
「教団関係者を狩るものがいる? でも、それだっていまさらじゃねぇの?」
 コムイの言い淀んだ言葉をあっさり継ぎ、しかしラビは首を傾げる。
 ノアの一族によって大量の犠牲者を出したのは記憶に新しい。今回の一件はあれほど大規模ではないが、内通者がいないとなれば、妥当な数値だろう。それが、ラビの正直な感想である。
「ただの狩りなら、ね」
 だが、返されたのは意味深長な疲れ切った溜め息だった。


 ぴくりと反応を示したのは、これはもはや記録者としての条件反射のようなものである。同じく片眉をわずかに跳ねあげた師を視界の隅に、ラビは己の勘が正しく機能したことを確信する。
「ただの狩りではないと?」
 問いただす声は重い。重く、深く、強く。刻んだ年数の分だけ、ブックマンの声には力がある。時間という、それこそ神の力を借りなければ覆せない、不可避のアドバンテージ。
 逃げを決して許さない追究の姿勢に、コムイは一層表情を引き締める。
「これを見てください」
「報告書?」
「そうだよ。最近の一連のまとめ。何か、引っかかることはない?」
 促され、ラビもまた資料を繰るブックマンの手元を覗き込む。


 無惨なものだった。遭遇したチームはことごとく全滅の憂き目にあっている。そこに挟まれる同情は、余計な傷を負わせず、一撃で命を絶たれているだろうその一点のみ。
「なるほど。相当な手練れとみえる」
 これではこの警戒ぶりも無理からぬもの。いっそ感心したとばかりに呟き、ブックマンは細い指で項をめくる。
 そしてその先。たった一枚の紙を経て、黒く施された縁取りの中で、真実を見つめ続けてきた瞳が見開かれた。
「……なるほど、な」
 それは、通過してきた資料とまるで同じ一枚。犠牲の出た地点と人数、推定日時、そして犠牲の出ていないチームと音信不通のチームの所在地を書き込んだ一枚の地図。
「これ、まるっきり罠じゃんかよ」
 違うのは、そこにとあるエクソシストの任地と予想移動経路、ならびにその日時が書き込まれていたこと。
 連絡を受け、無駄を嫌う彼のこと、きっと教団に向かいながら確認の一報を入れただろう。その地点もまた予想通り。そしてそこは、教団へ向かう進路を変更し、唯一の音信不通のチームの捜索に回るのに、あまりにもぴたりと当てはまる地点。


 出来すぎた符丁は、悪辣な罠と相場が決まっている。だとしたら、この一連の事件が指し示す事実はただの狩りではなく、特定のエクソシストを殺すための、周到な策謀の目晦まし。
「まさか、ユウ、ここ行っちゃったんさ!?」
くんと一緒にね」
 半ば叫ぶように問いながら、既に答えのわかりきっているラビは大げさに頭を抱えてみせる。
 道理で騒ぎになるわけだ。神田の実力を疑うわけではないが、こんなあからさまな罠に飛び込むなど、愚の骨頂としか言いようがない。


「しかし、いかがなさるおつもりか? 増援を送り、とにもかくにも連れ戻すことは決定事項として、かの長官方の目は誤魔化せまい」
「そこも問題なんですよ」
 心底困り果てた様子の声に、さもありなんとラビは同情を送る。彼の目をいかにかいくぐるか。その苦労を知らない神田ではないだろうに、今回のこの行動は、あまりにも無謀に過ぎる。
 だが、そんなラビの思いは杞憂に過ぎず、一層不可解な言葉が追加される。ずいと顔を寄せ、周囲を憚るように潜められた声と、深刻さを雄弁に語る瞳。
「長官が、黙認するよう言ってきたんです」
 それは、何事にも心を動かされない傍観者の師弟をして、絶句せしめるに足る珍事だった。


 呻くように喉を鳴らし、ブックマンは「まことか」と呟く。
「あの長官が、命令の破棄を認めたと?」
「それどころか、知っていたようなんですよ。契約だから、構わないとか」
「契約? そんなもん、いつの間に?」
 良くも悪くも人付き合いを極度に簡略化させて日々を送る神田が、いけすかないと公言するかの中央監察庁長官に自ら話しかけるとは考えがたい。まして、なにがしかの駆け引きなど、似合わないことこの上ない。神田を正しく知っていればこそのもっともな疑問を呈するラビに、しかし、コムイは仄かな苦笑をみせる。
「ラビ、忘れちゃダメだよ。今の神田くんには、有能な頭脳がそばにいるじゃない」
「……嬢か」
 苦味を孕む声で応じ、ブックマンは納得の色を刷く。
「神田くんは確かに、駆け引きの類は苦手というか、そもそもそんな面倒なことはしませんけどね。その分、くんのフォローというか、駆け引きの腕はスゴいですよ」
 しみじみとした説明がコムイによって追加されるが、ラビとしては納得しがたい。


 その名を出されて、思い浮かぶのは春の日が滲むような穏やかな微笑。武器を手に戦場を駆けるものとしての厳しい表情も見たことはあるが、あくまで彼女の存在は策謀という単語からはかけ離れているのだ。
「ちっともそんな風には見えんけど」
「だからこそ “凄い” のだろうよ。侮らせ、一気に叩く。策士の常套手段だ」
 ぴしゃりと言い切るブックマンに、コムイもまた曖昧な笑みを浮かべながらも決して否定は示さない。
「長官を押さえられたのは、正直なところかなりの痛手なんだよ。ボクの命令より、長官の命令の方が力がある。ボクが帰還を命じても、長官が好きにさせろと言ったら、それが優先されるんだ」
「まさか、全部計算ずく?」
「だろうね。じゃなきゃ、あの神田くんが長官に与するとは考えられない」
 知らず喉が鳴った原因はわからない。ただ、息苦しささえ感じられる底知れぬ恐怖がじわりと背筋を這い上がる。


 ここまで手札を広げられてなお状況が読み取れないほど、ラビは愚鈍ではない。思考の隅をちらちらとよぎっていた可能性に、ついに向き合わざるをえなくなる。
「てことは、この犯人は『あの人』さ?」
「少なくともボクは、神田くんたちがそう判断しているんじゃないかと推測しているよ」
「最悪じゃねぇの」
 声が掠れたのは、決して自分の心が弱いからだとは思わなかった。
 長い時間とは言わないが、他の教団員よりは懐に深く立ち入っていた自信がある。だからこそ、神田にとって『あの人』がどれほどの存在感と存在意義とを持っていたかを知っている。
 かの存在は、かのエクソシストを死へと駆り立て、生へと執着させる唯一無二の枷にして鎖。というまた異質の杭を知った今も、判断は変わらない。その枷を、鎖を、あの二人は自らの手で破壊することを望んでいるというのか。


「では、増援は送らぬ方が良いかの?」
 邪魔立てをすれば、あの二人は味方にも容赦なく刃の切っ先を向けるだろう。そう即座に判断を下せるほどに、『あの人』の存在の重さは誰の目にも明白。
「いや、二人に任せるにはあまりに危険要素が多すぎます。ついては、帰還早々で申し訳ないのですが、ブックマンにお願いしたいと思いまして」
「私なら、余計な手出しはすまいと?」
「これはデリケートな問題です。絶妙な判断を下せなければ、我々はエクソシストを二人喪うことになる」
「これ以上の損失の暁には、室長殿の失脚は確実であろうな」
「……ええ。それでは、困るんです」
 ほんの一時、伏せられた視線に浮かんでいたのは痛ましさだった。
 地位を失うわけにいかない一番の理由を、ラビもブックマンもわかっている。それは実に個人的なものだろうが、派生した行動が周辺に良い影響をもたらしているのだから、それで構わないとも考えている。
 所詮、人の世は人の思いで動いているのだ。どんな聖人君子だとて、立派な統治者だとて、個人的な願いから歴史に名を残す位置にまで歩んだ例は山のようにある。


 遠く、遥かな高みから見やるような穏やかとも冷ややかともとれる態度の向こうで、歴史の傍観者はそっと双眸を眇める。それは、ブックマンという名で覆われた翁の個人的な感傷なのか、それとも積み重ねてきた歴史と重ね合わせての観照なのか。未だ見習いの立場から逸脱できないラビにはわからない。
「この目で見たいという思いもある。増援の要請を承ろう」
「ありがとうございます」
 軽い首肯と共に返された承諾の意に、コムイは深く頭を下げることで応じる。
「最優先事項は?」
「ご自身の安全確保を。その上で、ゆとりがあれば神田くんとくんの安全確保をお願いします」
「強制的に連れ帰るべきか?」
 淡々とした問いに、束の間の沈黙。そして、コムイはゆるりと頭を振る。


 その瞳は静かな慈愛に満ちていて、まるでリナリーを見るときの表情だな、とラビは思う。深い深い、何ものにも代えがたい情愛。赤の他人にここまで思わせるほどの、いったい何をあの二人は抱えているのか。ラビは、そこまではまだ知らない。
「――できるだけ、気のすむようにさせてあげてください」
 彼らは、決して生半可な気持ちで戦場に立ってはいない。その意志を、誇りを、矜持を穢すつもりはない。ただ、喪いたくないのだ。大切な、愛しい仲間を。
「悔いのないように生きられるよう、それを支えることしか、ボクにはできないから」
 続けられた願いに、世界の枠から外れた傍観者は穏やかに頷く。
「あの二人のことは我らに任せ、室長殿はその他の采配に専念するといい」
「はい。よろしくお願いします」
「万事承った」
 言ってブックマンは軽い挙措でソファから床に降り立ち、沈黙を保っていた弟子へと向き直る。
「ほれ、行くぞ。さっさと追いつかねば、間に合わなくなる」
「あい、さー」
 気の抜けた声で頷き、ラビもまたふらりと立ち上がる。資料を手に二、三の問答を繰り広げながら、コムイは部屋の出入り口まで見送りに立つ。
 扉が閉まる寸前、振り返った旅立つ二人のエクソシストに向けられていたのは、コムイをはじめとした科学班員たちの、切なる思いを映した深い黙礼だった。

Fin.

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