朔夜のうさぎは夢を見る

救いは優しさではなく偽善だという事

 虫の知らせというか、鼻が利くというか。とにかく、アレンは自分の直感の鋭さというものに少なからぬ自信を持っている。こと悪い予感は外さない。だから、今回もきっと何かしら『嫌なこと』が起きたのだろうという漠然とした予測はあった。
 だが、それとこれとは大いに別問題だろう。受話器の向こうから「聞こえていますか?」と訝しげに問われても、即座に返事などできようはずもない。悪い予感の対象は、決して電話の相手が誰かという類のものではなかったのだから。
『アレン・ウォーカー? 聞こえていないのですか?』
「……いいえ、聞こえていますよ」
『ならばさっさと返事をしなさい』
 もっともな言い分に、返す言葉はない。言葉に詰まったという意味ではなく、返すことさえも面倒で。だが、不愉快な表情は極力隠さなくてはなるまい。ただでさえ、隣には面倒ごとの塊が直立不動で控えているのだから。
「申し訳ありません。任務を終えたばかりで、疲れているんです」
『臨界者の君を疲れさせるような大規模な任務ではなかったと思うのですがね』
「………未熟の致すところです。面目ありません」
 返ってきたわざとらしい溜め息は、沈黙を埋める歯軋りが聞こえていたがためのものではないとアレンは知っている。


 深呼吸をひとつ、そしてアレンは思考を切り替える。
「ご用件は?」
『帰還途中に、ちょっと寄ってほしい所があります』
「どこですか?」
 告げられた内容は、相手への警戒心を忘れさせるほどごくごくありふれたものだった。なんだ、そんなこと。直属の上司ではなく、なぜわざわざ中央庁特別監査役が連絡を入れてきたのかという点は大いに気にかかったが、エクソシストとしての職分を求められるに否やはない。
 続けられた地名は、なるほど帰還ついでに足をのばせる場所だった。ついでに言えば、この時点での連絡がなければ遠回りをすることにもなったので、実に絶妙なタイミングだったと言わざるをえまい。
「了解しました。任務内容は何ですか?」
『可能であれば適合者ごと、それが無理でもイノセンスの回収をお願いしたいと思います』
「適合者が新しく見つかったんですか?」
『いいえ、アレン・ウォーカー』
 君もよく知っているエクソシストですよ。ですが、彼らは今、死地に出向いていましてね。
 淡々と、いつもとまるで変わらない様子で紡がれる声に背筋が粟立つのを、止める術などありはしなかった。


 まるで新作のケーキの出来ばえを評価するような調子で、男の声は任務の詳細を述べていく。
『恐らく、今回の一連の件の犯人と交戦することになるでしょう。彼らの実力を侮るわけではありませんが、これまでの犠牲者の様子を見るに、相手の実力の方が上回ると思われます』
 援護は求めていない。これからでは間に合わないだろうし、下手な手出しをして彼らの機嫌を損ねても欲しくない。ただ、万一の場合、彼らの保持するイノセンスだけでも確保して戻る人員が必要である。それゆえの人選だと、ルベリエは続ける。
『コムイ室長がブックマン師弟を向かわせたようですが、巻き添えを喰う可能性もありますしね。ここは是非、臨界者のあなたにも追いかけていただいた方が確実だと判断しました』
「……誰が、先行しているんですか?」
 ようやく絞り出せた声は、思考を占める可能性の名を紡ごうとはしなかった。


 ああ、だって。だって、言われなくてもわかりきっている。
 教団が抱えるエクソシストは両手の指で足りるほど。戦闘を伴う任務に積極的に駆りだされるのは半分ほどで、さらにその中でも最前線を駆け抜ける存在など限られている。
 誰よりも危険な場所に、死に近い場所に、生が眩い場所にいるのは誰よりも深い闇を纏うエクソシスト。そんな危険な場所に先行するエクソシストは、かの青年をおいて他にいるはずがない。
『あえて言わなくてはわかりませんか?』
「神田、なんですね?」
 愉悦と揶揄を孕む甘い毒のような声は、さらなる現実を突きつける。
『それと、彼とペアを組んでいたが向かっています』
も、ですか」
 それは意外と言えば意外な、しかし違和感のない説得力を持つ名前だった。
 なるほど、彼女は否とは言うまい。まるで真逆に見えて、実のところあの二人の根源的な存在が似ていることをアレンは知っている。あの二人は、必要とあらば己の魂の危急さえ厭いはしない。
 逆に言えば、そういう覚悟をみせるあの二人を止める術など、誰も持ち合わせてはいないのだ。


 ぐっと唇を噛み締め、アレンは告げられた任務の内容を脳裏で反芻する。それは見捨てろということなのか。かのエクソシストたちを餌にして、犯人とやらをおびき出すつもりなのか。それとも何か、別の目的があるというのか。
「神田とを、連れ帰ればいいんですか?」
『いいえ、無理に連行する必要はありません。私は彼らに、彼らの今回の行動の自由を認めましたからね』
 声が揺れているように聞こえるのは、果たしてアレンの被害妄想なのか、現実なのか。ふつふつと煮え滾る思考回路は、ちっとも沈静化の兆しをみせない。
『終わった頃に追いついて、決して相手にイノセンスを奪われないようにしてくれればそれで構いません。それ以上は求めていませんよ』
「そうやって! そうやって、ボクに彼らを見捨てろというんですかっ!?」
 限度に達して叫び返すも、受話器の向こうからはわざとらしい溜め息が聞こえるばかり。まるで、その反応は予想される中でも最もつまらないものだといわんばかりの、あからさまな侮蔑の溜め息。


『では、何がしたいのですか?』
「何が、って! だって、危険じゃないですか!! だったら協力し合って、それで全員で生還できれば――」
『それで?』
 激昂に任せて口をつく言葉を遮るのは、冴え冴えとした冷たい声。耳元に、首筋に、喉許に、氷の塊を押し込められたかのような、鋭く深い嘲弄のにおい。
『戦場に命を懸け、矜持を殺して教団への恭順を誓い、それこそありとあらゆるすべてと引き換えに願いを叶えようとしている彼らの生き様そのものを踏み躙るのが、君のやり方ですか?』
 それは、絶望を突きつけるにも近い言葉だった。目を見開き、音を伴わない息を吐き出すばかりのアレンの耳に、常の穏やかさを取り戻した声が注がれる。
『赴き、決して彼らの邪魔をせず、残ったものを回収してきてください。その際の状態は問いません。なるべく良好な状態での確保は望みますがね』
 詳細は同行している監査官に伝えておこうという言葉を最後に、アレンは受話器を奪い取られる。てきぱきと任務の内容を遣り取りしている直立不動の背中から目を逸らし、アレンは唇を噛み締めて握った拳に一層の力を篭めていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。