朔夜のうさぎは夢を見る

答は知っていた

 踏み込んだ廊下の先がやけに騒がしいことに気づき、アレンはちょこんと小首を傾げた。呼び立てられたのはこの先。では、自分はこの騒ぎの野次馬としてわざわざ招かれたのだろうか。
 呼び出し主の性格を考えれば、それは大いにありえそうなことだった。深々と納得と諦めの溜め息を落とし、それでもせっかくの誘いを無碍にはできずにアレンは止まってしまっていた足を踏み出す。
 幸か不幸か、ちょっとやそっとの非常識な騒ぎには動じないだけの図太い神経を持っていないとこれまでの人生を生き抜けなかったのだ。こんな程度の騒ぎなど、象が蚊に刺されたようなものである。


 人だかりの中心は、案の定アレンの目的地だった。丁重に「すみません」と断りを入れて潜り抜け、なんとか奥へと入り込めば目の前はやけにがらんと開けている。いつもならば誰かしらがそれぞれに修練を積んでいるというのに。
 きょととまばたいて事情を説明してくれそうな人間を探せば、右手奥から呼ぶ声がする。
「おーい、アレーン!」
 大きく頭上で両手を振り、ラビはにかりと笑う。
「間に合ってよかったさ」
 招かれるまま近寄れば、そこにはコムイをはじめとした科学班の面々と、リナリーにブックマンといったエクソシストたち、果てはティエドールの姿まである。慌てて頭を下げたアレンにティエドールはにこりと微笑み、しかし何も言わない。やはりことの次第を問うべきは呼び出し主だろうと、アレンは改めてラビへと向き直る。
「どういうことですか?」
 これほどのギャラリーを集めて、一体何が行なわれるというのか。素直な疑問には、愉しそうな笑みを添えてひょいと親指が立てられる。そのまま向けられた方角へと目を向ければ、人気のない修練場の中心で向かい合う二つの黒い影が見えた。


 影の名前をアレンは知っている。それと同時に、一方に関しては性格も癖も実力も知っている。しんと凪いだ中に混じるぴりぴりとした緊迫感に、事態を悟ってアレンは困惑気味にラビを振り仰ぐ。
「模擬戦闘ですか? 早すぎませんか?」
「いやいや、実戦が一番だって。それに、元々ユウと稽古してたらしいし」
 片や歴戦のエクソシスト、片や適合者と判明したばかりのエクソシスト見習い。遠慮だの容赦だの手加減だの、そういった単語と無縁にしか思えないエクソシストをはじめての対戦相手にするのはいかがなものか。たとえばアレンだとか、あるいは寄生型より装備型の方が好ましいというならそれこそラビとか、他にも手ごろな選択肢はあっただろうに。
 考えた内容をすべて言葉にはしなかったアレンだったが、向けた視線は思いのほか内心を雄弁に語るものだったらしい。付け足すように告げられたラビの言葉はほんのわずかな納得と、それでも燻る躊躇いをアレンに植え付ける。


 互いが互いの挙動に集中しているらしく、周囲の遣り取りなどまるで気にした風もなく二人は対峙していた。一見無防備なほど無造作に、抜き身の刀を体側に下ろしているのは神田。対するは正眼に刀を構え、模範的な型を崩さない。やがてざわめきが静まり、一分の隙もない沈黙が修練場を満たしたところで、先に動いたのはだった。
 まっすぐ下段から斬りつけると見せかけ、寸前で向きを変えて横薙ぎに一撃。わずかな重心移動のみを経て片手で攻撃を封じ、その段になって神田はようやく視線を流す。
「そんなもんか?」
 流れるまま振るわれた一閃からすかさず飛び退いたにポツリと呟き、そして神田も地を蹴った。
 神田の俊敏性はエクソシストの中でもリナリーに次ぐほどのもの。体勢を立て直しきれていなかったに肉薄し、ギィンと金属のぶつかり合う鈍い音が響く。体格の差も性別の差も、鍔迫り合いにおけるの不利を物語る。
 無理な力比べはせず、は潔く退却を選ぶ。一旦背後に飛び退り、そして逃げを許さず追ってきた神田に自ら踏み込んで次の一撃を振るう。


 打ち合いは十合にも満たなかった。いなすように攻撃を受け流していた神田が唐突に距離を取り、すっと眼前で横一文字に六幻を構えたのだ。眼光が一層鋭さを増し、刃の根元に指先を当てて低く言葉を紡ぐ。
「六幻、抜刀」
 いっそ穏やかなほどに静謐な声は、小手調べはここまでだと冷酷に告げていた。いくらなんでもそれは無茶だろうと口を開きかけたアレンは、しかし、横合いから口元に手を当てられてまばたきを繰り返す。
「実戦が一番って言ったろ? はじめからそのつもりさ」
 向かい合う二人の集中を妨げないよう、潜められた声は余計な口出しをするなと言外に警告する。口を噤みはしたものの不本意だと訴える視線にそっと微苦笑を返し、ラビは宥めるように続ける。
「ユウは強い。その分ギリギリの加減もできるさ。訓練なんだし、滅多なことにはならねぇって」
 言いながらラビが視線で示す先、漆黒の刃を白銀の輝きに染め上げるエクソシストの向かいで同じように刀を横一文字に構え、エクソシスト見習いが指先を切っ先に触れさせる。
「――断ちませ、運切」
 声に応じて純白の刃はその姿を先端から漆黒に染めていき、そして硬質な音と共に無数の欠片へと砕け散った。


 イノセンスの発動と同時に速度を上げて斬りかかる神田の刃を受け止めるように、散った漆黒が盾をなす。その機を逃さず身軽に飛び退ることで間合いを取り、は盾からあぶれた欠片に向かい腕を突き出す。
 すいと描かれた指の軌跡に沿って漆黒の光が流れる。示された先にいるのは神田。光が襲い掛かる先も神田。唸りを上げて襲い来るそれらを鋭い一閃で薙ぎ払いながら後方へと回避するが、避け切れなかった光の掠めた一筋の髪が宙に舞う。
 闇夜に舞う雪片。その二つの色を反転させたような光景はいっそ幻想的でただ美しいだけだったが、漆黒の雪片はひとつひとつが鋭い刃なのだろう。握った柄の先で刃を撫で上げるように指を空に滑らせれば、散っていた光があっという間に刀身を形作る。距離を詰め、振り切られたそれは今度は散らずに六幻との間に細かな火花を散らす。
 発動前よりも打ち合いは格段に質を上げた。臨機応変に武器を散らしたり収束させたりしながら飛び回るの攻守の幅は広く、終始圧され気味だった両者の均衡はからくも保たれているようにみえる。
 散らしたイノセンスを足がかりに、は上空へと跳んだ。落下の勢いをばねにして一気に斬りかかるつもりなのだろう。空中で刀身が収束していくが、それを神田が甘受するはずもない。


 新人の意外な善戦に感心の色の強い口笛を吹いたラビが、そのまま「げっ」と小さく呻く。それはアレンたち観客に共通の感想であり、腰を落とし、迎撃の態勢を整える神田に加減の気配はない。どんなに大人気なく見えても、それまでは相手の経験不足を鑑みてかなりの加減をした上での遣り取りだったのだ。今さらのようにそんな現実に気づかされ、感嘆と興奮のざわめきは困惑と不安のそれに取って代わる。
「六幻、災厄招来」
 溜めの姿勢を保ち、神経の昂りを迸る闘気に変え、神田は低く呟いた。さすがに慌てたリナリーとラビが制止の声を上げるが、間に合うはずもない。ひとつひとつの動きがゆったりと感じられるのはすべて錯覚。音が届く頃には現実は過ぎ去っている。
「界蟲『一幻』!!」
 一言の下、刀が振り抜かれる。寸前まで迫っていたはすぐさま刀身を散らし盾と化すことで直撃を免れるも、勢いまでは殺せない。圧され、呑まれ、そのまま広い修練場の壁まで一気に弾き飛ばされる。
 派手な衝突音が響き、攻撃に巻き込まれた壁と床とが砕け散って砂塵を立てる。顔面を庇い、衝撃が収まったところでリナリーは悲鳴に似た呼び声を上げながら砂煙の中心へと駆け寄る。身体能力からして差がありすぎることを知っている科学班の面々は、下手に踏み込むことができずにおろおろとしながらコムイと元帥を見比べる。だが、彼らに動じた様子はない。コムイは厳しい表情でリナリーの去った後を目で追っているが、元帥に至っては興味深そうに目を細めて神田を見やるばかりである。


 至極面倒くさそうな溜め息が、沈黙に満ちる修練場に響いた。ぞんざいな、しかし優雅な所作で刀を鞘に納め、神田はコムイを見やって「もういいか」とのたまう。
「うん、ありがとう。助かったよ」
 でも、もうちょっと加減してくれても良かったんじゃないの。苦笑を浮かべながら続けられた言葉に、神田は鼻を鳴らしてそっぽを向くばかり。その師であるところの元帥はやれやれといった表情でやはり苦笑を浮かべている。
 砂塵が晴れた先には、緩慢な仕草でなんとか立ち上がろうともがくと、倒れるようなことがあればすぐに支えられるよう傍にしゃがみこむリナリーがいる。音が激しかった割りに、に目立った外傷はない。身体をうまく動かせないのは、したたかに壁に打ち付けられたからだろう。発動の解けたイノセンスはいつの間にか純白の刃に戻っている。
「何回まで把握できた?」
 壁に体重を預けることでどうにか立ち上がったに、神田は静かに問いかけた。唐突な問いの内容が理解できず困惑に染まる周囲とは対照的に、はひどく悔しげに表情を歪ませて息を吸い込む。
「……七回」
「十三回」
 そっと返された声は掠れ、しゃがれていたが、そのことに微塵の感慨もみせず神田は短く言い切った。


 息を呑み、目を見開き、そしてはうなだれる。二人には諒解できているらしい会話から完全に置き去りにされ、リナリーは首を傾げているし、アレンもまた疑問符を飛ばすことしかできない。
 呆れ混じりの溜め息を深々と落とし、冷ややかな目を流した神田が息を吸う。次は一体どんな言葉が飛び出すのか。思わず身構えたアレンは、しかし、機先を制すように上げられた声にはっと首を巡らせる。
「精進します」
 声は相変わらず掠れ、しゃがれて痛ましい様相を呈していたが、響きは凛と強く揺るぎないものだった。壁に半ばもたれながらもまっすぐ視線を神田に据え、一歩も退くことなくは言い切る。
「相手をしていただいたおかげで少し視えました。だから、また稽古をつけてください」
 神田とのことを深く知っているわけではなかったが、教団内で見かけた折りに、二人は別に敬語を使って会話をしていなかったとアレンは記憶している。唐突にどうして言葉遣いが変わったのかと、少しずれた感想を抱いて現実を半歩ほど踏み外してしまったアレンをよそに、神田は静かに応える。
「時間さえ合えば付き合ってやる。その前に、イノセンスの特性をしっかり把握しとけ。その方が先決だろ」
「はい。お願いします。ありがとうございました」
 悪口雑言か、あるいは皮肉を交えた会話が多いアレンからすれば意外にもほどがあるほどまっとうな意見を残し、踵を返した神田はさっさと歩き出す。その背に律儀に頭を下げたと人波が割れるに任せてずんずん遠ざかっていく神田を視界に納めて、アレンは知らず詰めていた息を吐き出す。しかしその安寧も束の間、鼓膜を叩いたリナリーの悲鳴に振り向いた先では、がずるりと壁伝いに床へ崩れ落ちていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。