朔夜のうさぎは夢を見る

君の振りかざす理想論

「お前、ルベリエに何言った?」
 邪魔にならないよう、細心の注意を払って見極めた距離をきちんと守って適当な木の根元に腰を下ろしていたは、凛と揺るぎ無い背中から向けられた声に小さく「え?」と問い返していた。
「だから、ルベリエだ。知ってんだろ、中央のヒゲ親父」
「……長官に聞かれないようにね」
「俺の口の悪さなんざ、向こうは百も承知だろうよ」
 溜め息と諦めが半分ずつ入り混じった返答をばっさりと切り捨て、神田は後頭部できつく結ばれていた目隠しを解き、軽く首を振りながら体の向きを直す。
 毎朝の習慣である鍛錬を終えたその額にはうっすらと汗が滲み、剥き出しの刀は朝靄に黒く存在を刻む。まるで、そこだけ夜が切り取られて残っているかのように。静かに、絶対的な存在を刻む。
 ぼんやりと六幻の刀身に見入っていたは、不機嫌そうな呼びかけにぱちりと瞬く。
「で? 何言ったんだ?」
「どうして?」
「廊下で擦れ違ったとき、言われたんだよ。俺も、お前と同じ望みを抱えているのか、ってな」
 端的な説明に、はうっかり眉を潜めてため息をこぼしていた。ああ、なんと余計なことを。それとも、神田がそのことをに告げ、がそう思うことさえもかの長官の思惑のうちだというのか。には、計り知れない。


 無駄のない所作での座す方へと歩み寄った神田は、その隣に畳まれていた上着を素肌に羽織り、ついでに水筒も拾い上げる。
 たぷんと水が鳴り、仰のけられ、曝された白い喉が上下して嚥下する。鳥の声が遠い。太陽は地表から大分高くまで上がったというのに、森の中はまだ朝焼けの気配を色濃く残している。薄闇と、薄明かりが入り混じっている。
「特別なことは、何も言っていないわ」
 その気配を乱さないように、立てた膝の間に頭を埋め、そっと囁き程度の声を落としたは、上空から後頭部に突き刺さる鋭い視線の気配をまざまざと感じ取る。そこに篭められた続きを促す意思を正確に読み取り、は続ける。
「ただ、望みの邪魔立てだけはなさらないでください、とお願いしただけ」
「詳細は?」
「言うとでも?」
 問いに問いを返せば、低く「悪ぃ」と呟きにも似た音が降ってきた。そんなことを言わせたかったわけではないのだと、ゆるりと首を振ることでは気にしていない旨を伝える。


 かさりと、草が踏まれる小さな音がして、正面に立っていた気配がの横に腰を下ろす。そのまま響く荷物を漁る音は、刀を手入れするための準備の音。鍛錬を終えて、そのまま簡単に六幻の手入れをするのが神田の日課だということを知ったのは、つい最近のこと。それは、が知らなかった神田の日常。
「正直なところ」
 道具を揃えたのか、荷物を漁る音は途絶え、作業に伴う音が小さくもゆったりと言葉の向こうに響いている。
「やつらがこんなに長く教団に居座るとは思わなかった」
 視界を闇に染めたまま、は神田の言葉を聞く。二人だけでひっそりと守るはずだった約束を、今後のための思惑があったとはいえ、無断で他人に垣間見せたことへの後ろめたさが重く体を締めつける。いっそ糾弾して詰ってくれればいいのに、神田の声はひたすらに凪いでいる。
「コムイにはそれとなく言ってあるが、あいつらには言うだけ逆効果だからな。どうしたもんかと思ってた」
 少しだけ気配が変化して、響いたのはカチンという硬質な音。それによって、は神田が六幻を鞘に納めたことを知る。もう、建物に戻る時間だ。裏切ったようで心苦しくて、身勝手とは知りつつも神田の顔を見ることに後ろめたさを覚える心を必死に叱咤して、ことさらゆっくりとは顔を上げる。


 見上げた先で、神田は鞘に納めた六幻を肩に、立てた片膝に腕を乗せて、静かに森の奥を見据えていた。
「仮にそうだと言ったらどうするんだ?」
「え?」
「言われて、俺はルベリエにそう返した」
 ちらと向けられる蒼黒の視線はただ静謐。神田のことを恐れる団員たちは、何よりもこの視線の静けさが恐いのではないかとは思っている。この世ならざるものを垣間見るでさえ、時に呑まれる錯覚を覚えるほどの深い深い色。深く、昏い色。底なしの夜の色。
「そしたらあいつ、教団への恭順を誓う限り、俺の邪魔もしないとここに保障しようとか抜かしやがった」
 はっ、と、響いたのは不敵に鼻で笑う声。くいと持ち上げられた口の端が、眇められた瞳が、歪められた頬が、ただただ凄絶に世界を嘲笑う。
「俺を、俺がなすと決めた契約を、アイツは縛れる気でいる。縛られた程度で俺が諦めるとでも思ってんなら、俺も随分となめられたもんだ」
 闇を髣髴とさせるのに、存在の眩さは光そのもの。相反する絶対性を内包する彼は、決して中途半端なことを許さない。狭間の時間にあっていっそう美しく映えるのは、彼が狭間とは真逆の存在だから。


 昏い笑みに、は己のなしたことが結局は老婆心に過ぎなかったかとひそやかな吐息をこぼす。わかっていたはずなのに、こうして読みたがえてしまう。それは、離れていたがゆえの不可避の齟齬なのか、心が擦れ違う予兆なのか。
 知らず眉根が寄り、視線は地を這う。半歩前にいたはずの背中の、なんと遠いこと。

 底なし沼に沈むように、思考の海に深く潜り込んでいたは、一瞬にして現実へと連れ戻す呼び声に、反射的に顔を上げる。直視することを恐れていた蒼黒の双眸を反射的にひたと見返し、表情を思わず歪めてしまう。
「お前は、それでいいのか?」
 対する神田は表情を変えなかった。静謐な、荘厳な双眸が問う。
「俺は、それ以外の全てを捨てる道に踏み込んだ。その先に続くのが、たとえ無間地獄だとしても、だ。――お前がいなくなったから、約束を守るためならそれでもいいと思ったんだ」
 歪んでいた表情の中で、瞳が大きく見開かれるのをは他人事のように感じていた。まじまじと、見つめる先で逆に神田の瞳の奥で光が翳りを帯びる。
「お前を巻き込むつもりはなかった」
「そんなこと」
 静けさに苦味の混じる声に、はかさついた声を返した。見開かれた瞳が次に浮かべたのは、情けないほどにぐしゃぐしゃの微笑み。きっと歪なのだろうと自覚しながらも、それを取り繕う意思はには毛頭ない。
「そんなこと、今さらだわ」
 巻き込まれたのではなく、選び取ったのだから。告げた声には、静謐さに痛ましさを付け加えた微かで歪な笑みと、「そうか」という声が返された。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。