灰色の霧が世界を覆う
第一報がいったいいつのそれだったのか、今となっては判断できない。その事実が、自分たちが後手に回ったことを糾弾しているようで、コムイはきつく唇を噛み締めた。
何も見えない。何もわからない。断ち切る刃を持たないコムイの唯一にして絶対の武器であった情報がまるで役に立たない。それは、喉元に刃先を突きつけられているよりも深い恐怖心。絶望の深淵を覗き込みながら、背を押されることを確信しているような諦念。
牙を奪われた獣や武器を失ったエクソシストは、もしかして戦場でこのもどかしさに歯噛みしているのだろうかと、そんなことを考えていた。
焦りに揉まれ、無力感に鞭打って働く科学班員たちを感慨の欠片もなく見やっていたルベリエは、持ち上げたカップを小さく揺らしておもむろに口を開く。
「実に由々しき事態ですな」
緩慢に振られる首は悲哀を伝え、芝居がかった口調は嘲弄を潜ませる。こんなことすらわからないのかと、出来の悪い教え子を諭すような声がゆるりとコムイの背筋を這い上がる。
「せめてもの救いは、エクソシストに害が及んでいないことですが、いつまでもつやら」
「既に単独任務はすべて取り消しました。最低でもツーマンセルを組ませ、生還を第一命令にしてあります」
「まあ、妥当なところですね」
「いくら方舟を使えるといえ、ゲートの出し入れに発生するタイムラグばかりはどうにもなりません。まして、奏者の資格を持つアレンくんは臨界者。教団でくさらせておくにはあまりに惜しい」
「わかっています。だからこそ、アレン・ウォーカーの任務復帰を認めたのですからね」
疑惑はまだ晴れていない。方舟にしろ奏者の資格にしろ、わからないことが多すぎる。
人の智があまりに僅少であることなど、改めて思い知らなくともわかっている。それとも、神はそんな程度の自覚など、認めてはくださらないのだろうか。
自虐的な思考は、他の思考よりも加速しやすい。あっというまに脳裏を埋め尽した後ろ向きな思考に溜め息を飲み込み、科学班室長は強く瞼を閉ざす。
「とにかく、今は犯人の特定が急務です。これ以上エクソシストを減らすわけにはいきません」
「まったくです。あなたの手腕に期待していますよ、コムイ室長」
「最善を尽くします」
薄っぺらい期待の言葉にはさらりと上辺だけの返答を送り、コムイは先ほどから物言いたげな視線で自分を見つめていた科学班班長の許へと踵を返した。
ちらとだけ視線を流し、しかし賢明な科学班班長は余計な行動も言動も起こしはしなかった。黙ってコムイに書類を差し出し、ページを指定してから説明のために口を開く。
「現在までの被害はファインダー十八名とサポーター六名。死因は鋭い刃物で喉笛、もしくは心臓を一突き。相当な手練れだと思われます」
「他に怪我は? 抵抗した跡とか」
「相手から傷つけられた痕跡はありません。死因に直結する一撃のみです」
被害人数分の書類の厚みはさほどでもない。だが、その一枚一枚に一人分の命が載っているのだと考えて、コムイは息を詰める。これまでとは明らかに違う遣り口に、思い至る可能性はたったひとつ。伯爵が、新しい手駒を手に入れたということ。
「エクソシストからの報告は?」
「今のところありません。とにかく、帰還を急ぐよう再度通達を出しました」
「うん。ありがとう」
紙の束を机に丁寧に置いてから、深く息を吐き出してコムイは思考を巡らせる。何か、何か見落としていることはないか。何でもいい。事実を知る手がかりになることなら、この際たとえ絶望だろうと冷静に受け入れる自信があるのに。
「それと、室長」
ぎりぎりと歯を食い縛っているコムイの耳に、一層声を落としたリーバーがそっと囁きかける。
「神田から伝言が。――最新の被害の場所を教えろ、と」
「!?」
思わず声を上げそうになったところを目で制され、コムイは上擦る声を必死に絞り出す。
「どういうこと? それより、まだ教えてないよね?」
「もちろん」
素早く頷き返したリーバーは、詳細を話したい旨だけを告げ、じっと注視してくるルベリエの視界からそそくさと立ち去った。
そのまま他の班員からもたらされる情報を片っ端から整理することに没頭しはじめたコムイをしばらく観察していたが、カップが空になったのを合図にルベリエはゆらりと腰を上げる。
「では、室長。私はこれで失礼しますが、動きがあったらすぐに知らせてください」
「はい。お疲れさまです」
そつなく頷き返したコムイは、しかし、続けられた言葉に耳を疑う。
「それと、・から任務を離れたいとの連絡があった場合も私に回してください」
「え? いや、しかしそれは」
「監査のためではありません。彼女とは少しばかり、取り引きをしていましてね」
慌てて言い繕おうとしたコムイの狼狽など気にもかけず、ルベリエは扉に向かいながら首の上だけを巡らす。
「望みの成就を対価に、教団への永遠の恭順を誓ったのですよ、彼女は。任務のひとつを放棄する権利ぐらい、可愛らしいではありませんか」
ゆるりと微笑みながらルベリエは己の命令権がコムイのそれよりも高みにあることを示し、反論を封じた。黒の教団における科学班室長という肩書きも、その母体であるヴァチカンの中央監察庁の前には霞んでしまう。それを正しく理解しているからこそ、コムイは言葉を呑むことしかできない。
「彼女は、何をしようと? それより、それと今回の件とに関連があるのですか?」
「さあ、私は知りませんよ」
それでも問い返さずにはおれなかったコムイの激情を押し殺した声に、あくまで優雅な笑みを返した監査官の長は小さく肩を竦めるだけである。
埋まらない溝だけを見せつける背中が扉の向こうに消え、そして十分に時間が経つのを待ってから、コムイは改めてリーバーを呼んだ。
「神田くんの伝言、さっきの長官の言葉と何か関係ありそう?」
「ビンゴですよ。と一緒に犯人探しを優先したいとのことです」
「どういうことだろう? 神田くんには犯人の目星がついているのかな?」
溜め息交じりのリーバーの言葉を反芻しながら、コムイは可能性を列挙する。
神田は教団への所属年数の割りに、単独任務の多さから赴いている場所、出会っている人間の数は相当なものなのだ。シンプルというよりはそっけない報告書しか書かないが、要点を外したことはない。いつか、どこかの任務でそれらしき人間に出会った記録はなかったか。極端に他人への関心が薄い神田が、これほどの執着を見せるような、特殊な人間は。
「それと、ルベリエ長官に何か言われたら、契約だと言えばわかる、とも言ってました」
「どうやら、ボクらの知らない間に何か取り引きをしたみたいだね。まったく、侮れないんだから」
リーバーの告げた言葉は決定打だった。コムイにもリーバーにもわからない何かを、ルベリエは知っている。そしてそれは、どうやらから持ちかけた取り引きだということだけが察せられる。
直情径行にある神田とは対照的に、はおとなしそうに見えて搦め手を講じることが少なくなかった。外堀を埋め、じわじわと包囲網を狭めた上で要求を突きつける。穏やかな笑みの裏で権謀術数を巡らせることなど造作もないだろう。
今回のルベリエとの取り引きは、さしずめ最高権力者に対する先手とコムイが反対した場合への予防線か。だとすれば、その裏に読むことができる事情は何か。コムイが、ルベリエが反対しそうな何かで、彼女が望みとして抱いていそうなことは何か。
思考回路を必死に回転させる向こう側では、科学班員たちの声が飛び交っている。犠牲者が増えていく。今、この瞬間にも遺体が見つかっている。
「犯人探しってことは、神田くんには相手を倒す意思があるのかな」
「そこまでは聞けませんでした。情報を寄越さないなら自分で探すからいい、と言って一方的に切られたんで」
「あー、もう、神田くんらしいなあっ!」
「ゴーレムはさすがに壊されてないと思うんですけど、次に連絡入れるときはさすがにちゃんと返事をしないと、音信不通になりそうだったんで」
「うん、わかってる。賢明な判断だったと思うよ」
わからない、何もわからない。だが、確かなのは神田が敵とみなした相手に決して情けをかけないということと、ああ見えて味方とみなした相手に懐が深いということ。そして、いつもならばストッパーになるはずのが、流れに棹を差している。ならば、いっそ賭けてみるのも一興か。
掴みえたわずかな可能性を光明と、ようやく手にした武器だと信じて。コムイは、隣でじっと指示を待っているリーバーに、神田のゴーレムを呼び出すよう依頼した。
Fin.