朔夜のうさぎは夢を見る

終止符は君の手で

 本来のそれ以上の重みを手首に与えている気がした受話器は、しかし、戻してみてもそう大きな音を立てることはなかった。当然のことと、思う反面は代わりとばかり深々と息を吐き出す。
 淀んだ思い、凝った思い、溜め込まれた想い。それらを少しでも吐き出してしまわないと、体がずぶずぶと大地にのめりこんでしまいそうな錯覚を覚えて。
「何か言ってたか?」
「いいえ、特には何も。ただ、任務という形式を与えられたわ」
「……余計なことを」
「形ばかりの束縛など、私たちには何の意味もなさないと。きっと、室長だってわかっているのにね」
 それでも、命令を下さずにはおれなかったのだろう。わずかばかりの希望と、かそけき可能性の光。存在しうるなら存在しないこととは対極だと、信じ、実行しなければ掴み取れない全てのために。


 ついと唇の両端を持ち上げて、刻むのは静かな笑み。ああ、本当に愚かなこと。あなたはあなたの思うものだけを守ればいいのに。私たちなどにかまけなくても構わないのに。
 それは、受話器を片手に大騒ぎを繰り広げているだろう男への憫笑であり、思いをかけられながらも応えようとしない自分への嘲笑。
「余計なこと考えてんじゃねぇよ」
 浮かぶ笑みを掻き消してから振り向こうと思っていたのに、掻き消す前に、表情は意外と驚愕とに取って代わられる。受け止めた言葉にぱちりとまばたき、そのまま振り返れば案の定、最高潮の不機嫌を示した蒼黒の双眸が鋭く向けられている。
「どうせ、不甲斐ないだの、気にしなければいいのにだの。その手のこと考えてたんだろ?」
「だって、それは――」
「どうしようもねぇんだから、考えるだけ無駄だ。やめとけ」
 ぴしゃりと断じ、手元の紙コップを持ち上げて神田は眉間の皺を深める。電話をする前は確かにくゆっていた湯気が見当たらない。いったいどれほどの時間が経ったというのか。


「場所は?」
 冷め切っていただろう苦いコーヒーで舌を湿らせ、神田は変わらない不機嫌な声を絞り出す。
「そう遠くないわ。次の大きな駅で乗り換えて、半日といったところかしら」
「この時間からなら、今夜は宿を取った方がいいか」
「駅からは少し距離がありそうだし、強行軍にはしない方がいいと思う」
「相手が相手だし、な」
 何気なく付け加えられた言葉は、ひどく重く地に落ちる。抱え込んでいた武器を抱き直し、それでも仏頂面を崩さない神田は鋼の無表情の奥で何を思うのか。には計り知れないし、無理にこじ開けてでも聞くことは避けようと決めている。
「無理に付き合うことはねぇぞ」
 がたがたと、規則的な振動に仄かな眠気を誘われながら窓の向こうを眺めていたは、ぽつりと落とされた言葉にはっと覚醒する。慌てて視線を巡らせれば、じっと見据えてくる、こちらは微塵の表情の動きもみせない精緻な美貌。


 ゆるりと睫が上下に蠢く。ぬばたまの、と。その表現がまさにぴたりと当てはまる、しっとりと光を帯びた、漆黒。
「無理なんかじゃないわ。だって、私の望みでもあるのに」
「人を殺すことが、か?」
「……あの人に終わりをもたらすことが、たまたまそういう定義に当てはまるだけよ」
「どんなに理屈で覆い隠そうとしても、感情はついてこねえ。お前、そんな顔でそんな強がり言ってて、俺に通用するとでも思ってんのかよ」
 心底くだらなそうに吐き出された声は、しかし、その奥底深くにやわらかな憐憫と慈悲とを隠している。それを正しく知っているから、はいたたまれなくなる。
 どこまでもどこまでも、わかりにくく優しいこの人は、自分を事態の中心から遠ざけようとする。まるで、雪の結晶を太陽の光から隠すかのように。
 そんな必要はないのに。自分は溶けて消えたりはしないのに。あなたがそれほどの恐れを抱いて触れるには、自分はあまりにも醜く穢れているのに。


 見据える双眸から逃げるように顔を伏せ、はそっと己の頬に指先を這わせる。そんな顔とは、いったいどんな顔だろう。今の自分は、いったいどんな表情を浮かべているのだろう。
「そんなに情けない顔をしている?」
「支離滅裂って感じだな」
 容赦ない形容に眉を顰めても、追撃の手は緩まない。
「お前、人を殺したことないだろ」
「ユウは、あるの?」
「まあな」
 さらりと返されたいらえは、温度も湿度も含まない。遠く、夕陽の残照さえ消えた窓の向こうへと移された視線に、憂いも後悔もない。いっそ残酷なまでに静謐な佇まいは、冷徹だの無慈悲だの、そういった二つ名を欲しいままにするエクソシストとしての側面を髣髴とさせる。それは、の知らない神田の表情。
「もう一度だけ、忠告しとく」
 戻された視線は、深かった。


 の知らない絶望を知り、の知らない覚悟を孕む深さ。どれほど希おうとも、隔たれた時間の分だけ、どうしても追いつくことが適わなくなった絶対の距離。
「引き返すなら今だ」
「嫌よ」
 最後の岐路に立ち、しかしは迷わない。照らす光が行き先を定めているというのに、なぜ迷えよう。鞘と刃は別たれない。刃はそれだけで意義をなすだろうが、鞘はなさない。鞘は、刃があってはじめて存在に意義を得る。
「私の望みでもあるし、私の約束でもある。あれは、あなた一人で抱えるものではないわ」
「なら、ついてくる分には構わねえ。が、お前は手を出すな。たとえ俺ら二人の約束だとしても、これは、俺の命を対価とした契約だ」
「……そこならば、邪魔じゃない?」
 それが最後の妥協案。そこが、許されたギリギリの距離。
 踏み越えたらばきっと、神田は二度と振り返らない。たたずむを邪魔だと判じ、振り払って立ち去るだろう。
「ああ。邪魔しねぇなら、見ていて構わねぇぜ」
 確信に裏打ちされた問いに返されたのは、ほんのわずかな瞠目の後、人を喰った皮肉げな笑みだった。

Fin.

back to D-Gray man menu
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。