嘘つきと罵ることも出来ずに
受話器の向こう側から響いてきたのは、予想通りといえば予想通り、予想外といえば予想外の穏やかなアルトだった。
『どうかしましたか?』
「……いや、なんというか。わっかりやすい反応だなぁ、と思ってね」
『この程度、想定の範囲内だったと思いますけど』
「まあね。予想はしていたんだけど、でも、ねえ?」
『おっしゃりたいことはわかりますけど、そろそろ本題に入っていただけますか?』
でないとこのゴーレムの生存が危ぶまれます。そう、笑い混じりに混ぜ返す声はどこまでも穏やかに凪いでいて、しかし、最奥には譲れない凛とした芯が潜んでいる。
言っても無駄だろうと、そう悟るには十分すぎるほどの本当に穏やかな声。彼を止めるための最良にして唯一の鎖になると期待していたのに、蓋を開けてみれば、何のことはない。彼女は、彼をより加速させるための片翼となって戻ってきたのだ。
手に手に対をなす刀を携え、揺るぎなく戦場に向き合う姿は一服の絵画と表しても過言ではあるまい。刹那を切り取るからこそ美しいのか、終わりが垣間見えるからこそ美しいのか、それはどうしてもわからないが。
ざりざりと響くノイズの向こうには沈黙。しかし、彼女がゆるりと口の端を吊り上げて静かに微笑んでいることが知れる、そんな沈黙。
「依頼は聞いたよ。けど、ボクはまだ、判断できるだけの情報をもらっていない」
『長官からお話は?』
「それとなくね」
『それでは足りませんか?』
「何の話かまるで読めないのに、どう判断しろっていうのさ」
呆れと諦めを篭めて混ぜ返せば、意外そうに「まあ」と呟かれる。自分は日頃、どんな評価を受けているのかを少なからず気にかけながら、コムイはもう一度同じ内容を繰り返す。
「事情を話してくれないかな? そうじゃないと、どうすべきかの判断さえできないよ」
『あらましは既にお伝えしてあると、ユウにはそう聞いていますけど?』
「じゃあ――」
『それが全てです。今の私たちに、それ以上を語る気はありません』
静かで凪いだ声だったが、それ以上に、悲しく切迫した声だと、コムイは妙に落ち着いた思考の隅での声を断ずる。
流れた沈黙はいかばかりのものだったのだろう。すぐそばにいるだろう短気な青年が割って入らない程度の時間だったのだろうと、そう推測することはできるが、彼は彼で時々まるで推測のできない行動に出る。良くも悪くも、わかりやすくてわかりにくいのが、異なる黒を纏う遠い東の果てのエクソシストたちなのだ。
落ちる溜め息に篭めるのは諦念。言っても無駄。言うだけ無駄。彼女がいた時も、いなくなってからも、戻ってからも、彼は変わらなかった。どんな言葉を尽くしても、彼を変えることはできない。彼は止まらない。止められる唯一の存在が止めようとせず、加速させるだけだから、誰にも止められない。
横合いから視線を感じて目を上げれば、あらゆる感情を飲み込んだりーバーが見つめていた。滲む中で最も大きな割合を占める感情に、しかしコムイは色よい答を返せない。ゆるりと振った首を契機に、せめて彼らが手の届かないところへ行かないようにと、ギリギリの妥協案を示す。
「最新の被害の場所、だったっけ?」
『ええ。無論、任務を加えていただく分には、何の依存もありません』
視界の隅でリーバーの表情が歪み、受話器の向こうでの声が弾む。正しいのはどちらで、間違っているのはどちらか。そんなこと、神とても判断はできないだろう。判断してなど、欲しくないのだ。
「被害の箇所が点在していてね。どこが最新なのか、ボクらとしても判断しあぐねているのが現状。その上で、これはボクの推論だけど、聞く気ある?」
『いつだって、私たちは室長の推論と判断を頼りにしています』
くつくつと、笑う声は穏やか。響く声はたおやか。
そこに血のにおいなどしないというのに、そこに死の気配など存在しないというのに。どうしてこうも、絶望的なまでに凪いでいるのか。
普段ならば照れて混ぜ返したくなるセリフも、今はただ厭わしい。頼りにしていると称された推論の内容は、決して告げたくなどない。たとえ思考の片隅で、タイミングの良さを喜ぶ怜悧な判断があったとしても。
「探索部隊の派遣任務の中で、一件だけ、ずっと連絡が取れずにいるところがあるんだ」
そう、それはまるで図ったかのように。今回の件についての注意勧告を出そうとして、そして繋がらなかったたったひとつのチームがある。ちょうど、そこは彼らの帰り道。彼らが予定通りに任務を終え、勧告を受けてしばらくの後に移動するにはまさにうってつけの地域。
地名を告げれば、も同じことを思ったのだろう。ちょうどよかったと安堵の息に言葉を絡められ、コムイはどうしていいのかがわからなくなる。
冷静な思考回路が弾き出すのは、この一連の事件の向こう側にいる相手が、どうやら彼らとの遭遇を望んでいるのだろうという確信。そこに横たわる思惑までは、読み取ることができないのだけれど。
から彼らの現在地を聞き、移動経路を確認してからコムイは改めて任務を言い渡す。決して、決して自分は彼らを無意味に死地に送り出すのではないと、その意思を篭めて。
「君たちの任務は、連絡の取れない探索部隊の捜索と原因の調査。深追いは禁止。必ずペアで行動して、仮に“アクマ以外の敵”に遭遇した場合は教団への生還を最優先すること」
『探索部隊の捜索任務。可能な限りイノセンスの調査を行い、確保を考慮。敵に遭遇した場合はその殲滅を実行』
「くんっ!!」
『エクソシスト、・、並びに神田・ユウ。任務、確かに承りました』
復唱されたのは、改竄された任務内容。咎める声にもまるで動じず、紡がれるのは温度を感じさせない凪いだ声。
『室長』
踏みとどまらせるつもりが、結局は背を押すことしかできていなかったと焦りを濃くするコムイに、はいっそ慈愛に満ちた穏やかさで呼びかける。
『私たちは、別に死ににいくわけではありません。ですから、どうか、邪魔立てだけはなさらないでください』
そうでないと、私たちはあなた方に刃を向けなくてはならなくなります。
深く静かに凪いだ声がただ穏やかに終焉を告げ、二人のエクソシストに繋がる糸は断ち切られた。
Fin.