朔夜のうさぎは夢を見る

こびりつく記憶

 時間さえも淀んでいるような静寂と暗闇が蟠る教団の最深部。カツンと高く靴音を鳴らし、闇を纏って視線を伏せていたルベリエは、顎を持ち上げて厳かに呼びかける。
「ヘブラスカ」
 呼ばれ、闇の中に湧いたのは光。蒼白く仄暗く、神の結晶をその胎に抱く番人が、音もなくルベリエの眼前に姿を現す。
「……何か、用か?」
「ああ、無論。用もなくあなたを呼び立てたりはしませんよ」
 響く靴音。光源に歩み寄ったルベリエは、頭を仰のけて言葉を繋げる。
「聞きたいことがありましてね。あなたが最後に手放したイノセンスについてです」
のことか」
「ええ」
 間髪入れぬ肯定に、何を思ったのかヘブラスカは束の間の沈黙を返した。


 元々表情らしきものを浮かべない、静寂の代名詞のようなエクソシストに小手先の駆け引きは無用にして無意味。逡巡に問い質す価値ありと判断し、ルベリエは両目を眇める。
「クロス元帥は彼女を適合者と判断して連れてきたと言っていましたが、実際に適合したのは元帥の手持ちのイノセンスではなく、教団で保管されていたイノセンスだった――。これは、どういう意味でしょう?」
 かの少女は、単なる適合者以上の存在なのではないか。言外に含めた疑念は、まだ口に出すには早計に過ぎるだろう。返答いかんで追及の手を強めることを胸の内で反芻し、監査庁長官は眼光を強める。
「そのままの、意味だ。クロス・マリアンは魔術にも造詣が深い。本人にしかわからない判断基準、あるいは、勘のようなものが、あるのかもしれない」
「そんなにいい加減なものなのですか?」
「こればかりは、何とも言えない。理屈ではなく、感覚の世界だ」
「では、仕方ありませんね」
 納得がいったとは言いがたかったが、百年の長きにわたってイノセンスと生き続けてきたエクソシストの言葉は安易に否定できない。何より、ルベリエ自身が適合者でない以上、感覚についての議論ができないのだからこれ以上の追求は不可能である。
 溜め息に絡めて諦めの言葉を吐き出し、ではと新しい話題を舌に乗せる。


「彼女のイノセンスはどんな能力を?」
「分解と、再構築。死と、再生。終わりと始まりを、司る」
 抽象的な喩えに眉を顰めたルベリエは、しかしすぐに口の端を持ち上げる。浮かぶのは、剣呑にして昏く深い期待の色。
「それは、不死と同義と取っていいのですかな?」
「違う。だが、使いようによってはとてつもなく強大な力を発揮する。あの刃に意思をもって触れられて、その意を覆すことは不可能だ」
 一旦は落胆の色を見せたものの、繋げられた説明にルベリエはふむと顎に指を添える。
「ですが、そうなるとやはり、シンクロ率の向上が目下の課題となるわけですな」
「イノセンスの力を引き出すのは適合者。シンクロ率が低ければ、いかに稀有な能力でも無いに等しい」
「やれやれ、本当に厄介なものですね」
 呟く声は平坦だった。それまでと違い、期待も落胆も何も篭もっていない、ただ単語を紡ぐだけの音。暗がりの中ではその表情も読み取れない。微かな残響の中に沈み、ヘブラスカもまた変わらない表情でルベリエの独白を聞いている。


 反響していた声が完全に消え去ったところで、ルベリエはふと顔を上げた。じっと見返しているヘブラスカに目元と口元を和ませてから、凛と声を張る。
「実は、リナリーのイノセンスのことでご相談にあがったのですよ」
 声色が変わるだけで、場に淀んでいた時間が流れ出す錯覚に陥る。それまでたゆたっていた時間がまるで存在しなかったかのように、ルベリエは言葉を継ぐ。
「じきにコムイ室長もいらっしゃいます。イノセンスの番人としてのあなたの意見をお聞かせ願いたい」
「……承知、した」
 ヘブラスカは些末事には関わらない。くしくもルベリエが言ったとおり、ヘブラスカの存在意義はイノセンスの番人として特化している。だから、些末事全般を取り仕切る立場にあるルベリエがないように振舞うのなら、ヘブラスカもまた、つい先ほどまで触れていた内容を腹の底へと沈める。
 静かな声と挙措で肯定を返したヘブラスカを一瞥し、そしてルベリエはおもむろに回廊に向かって呼びかける。
「コムイ室長! お待ちしていましたよ」
「お待たせしました。ヘブくんも、待たせたね」
「いや」
 そして繰り返される説明を聞き流しながら神秘の守り人が見やる監査庁長官の横顔からは、リナリーのイノセンスに対する関心以外の表情は一切読み取れなかった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。