朔夜のうさぎは夢を見る

さようなら、見飽きた夢よ

 普段は踏み込みもしない廊下を迷わず進み、神田が辿り着いたのは人気のない扉の前。過酷な戦いを強いられたものの、日本での伯爵との対峙において教団は人員の損失を出していない。よって、聖堂はいつものごとくただしんと静まり返っていた。
 軋む音を立てて開かれた扉の中に滑り込み、すいと視線を向けた先に探し人は佇んでいた。質素な黒のワンピースに厚手のカーディガンを羽織っただけの背中は、いっそ頼りないほど細く、しかしぴんとまっすぐに伸ばされている。静寂に溶け込むようにして立つその頭が少しだけ下を向いていることから、彼女が何をしているかは容易に察しがつく。彼女が教団にいたその僅かな時間を共有した相手のうち、いったい何人が灰に還っただろう。
「神に祈れば、私の声は届くかしら?」
 別に足音を殺すこともなく数歩後ろまで歩み寄った神田に、は姿勢を変えないまま唐突に問いかけた。
「私が声を届けたい相手は、神の許にいるのかしら?」
「知るかよ。大体、俺は神だの仏だのはろくに信じてねぇぞ」
 溜め息混じりに返す神田の声は不機嫌をはっきりと映していたが、気にした風もなく小さな笑声がこぼれる。何かを懐かしむような、愛おしむような、それはかつて彼らが共に耳にしていた静かな笑みによく似ていた。
「知っているわ。ユウにとって信じられるのは、その目で見て、その耳で聞けるものだけでしょう?」
 言って、はゆっくりと振り返る。凪いだ声に負けず劣らず、その双眸が湛える光はひどくたおやかで、神田はその静けさに知らず眉根を寄せる。


「勝手にふらふらしてんじゃねぇよ。まだ大人しくしてるように言われてんだろ?」
 深く息を吸い、それから神田は低く声を絞り出した。自分こそが安静を言い渡される病室から真っ先に逃亡したことなど棚に上げ、もっともらしい理屈を述べる。
「大丈夫よ。怪我をしていたわけでもないし、寝ているだけなんてもう飽きたわ」
「だったら医者に直談判しろ。騒ぎになると、あとが面倒くせえぞ」
 主にコムイが。付け加えられた注釈に、は遠慮なく噴出して肩を震わせる。
「変わったことが一杯だと思っていたんだけど、変わっていないこともあるのね。安心したわ」
「変わっているべきなんだろうがな。やつのリナリーへの執着なんか、酷くなる一方だ」
「いいじゃない。あんなに力いっぱい愛されるなんて、素敵なことよ」
「どうだか」
 醒めた目を宙に泳がせる神田を見やってから、は大きく呼吸をして近場の椅子に腰を下ろす。通路に足を投げ出し、横向きに座った姿勢を理由に視線を神田から外し、ゆっくりと視界を閉ざしていく。


 呼吸も挙措も、すべてが最小限の力のみで成り立っている神田の存在はとても静かだ。だから、こうして沈黙の中に沈み込んでしまえば、その存在はひどく希薄になる。それでも決して消えることがないのは、その静かな存在がこの上なく清冽な気配によって構成されているから。出で立ちも振るう武器もすべてが闇を髣髴とさせるのに、月の光が蟠っているようだとはが前々から神田に抱いている印象だ。
 月の光は、刃の煌めきに似ている。冴え冴えとしていて、凛としていて、潔い。だからやはり、神田は月の光に似ている。
「おい、気が済んだなら、いい加減――」
「待ってるの」
 だけど、神田は月ではなく人だ。苛立ちと困惑に染め上げられた声を遮り、はそっと口の端を吊り上げる。触れれば温かいし、内面は混沌と激情に満ちている。時を経てその気配はますます鋭く研ぎ澄まされたが、根本的な部分が変わっていないことがにはひどく喜ばしく、でも哀しくて胸が痛い。
 あらゆるものを削ぎ落とした単語に、どういうことだと雄弁に語る視線が突き刺さる。それを受けてうっすらと瞼を持ち上げながら、は言葉を編み上げる。
「ずっと、私を呼んでいる声があるの。あなたの声を頼りに混沌から抜け出して、それからずっと耳の奥で引っかかっている。最初は遠くてよくわからなかったんだけど、もうすぐわかる気がするの」
 それは、夢とも現ともしれない遠い声。幻聴と断じるにははその手の“不可思議な”声に慣れ親しみすぎていたし、かといって幾度か耳にしたことのあるそれらとは一線を画していた。ただ、覚えがある。知識としての記憶ではなく、感覚としての記憶がその存在を肯定する。だから、呼ぶ声がよく聞こえるように、静寂を求めて寝台を抜け出してきたのだ。


 紡がれる凪いだ声に、神田はあまりいい思い出がない。彼女がこういう声を出すときは、何かしら神田には与り知らない力がに働いているときだ。決して共有することのできない世界。神田では垣間見ることさえできない何か。他人のすべてを理解できるなどとは考えていないが、それでも、理解をするかしないか以前の隔絶を感じるのは、あまりいい気分のしないことだった。
 ゆるりと開かれた瞳が、ひどく緩慢にまばたく。そして、背後から迫りくる得体の知れない、しかし身体に馴染んだ気配。
 閉ざされていたはずの扉を擦り抜け、光の軌跡を残してそれはいつのまにか差し伸べられていたの手の中に納まった。薄暗かった聖堂は蒼白い光に染め上げられ、微かな耳鳴りに神田は無意識のうちに腰を探り、慣れた感触がないことに諦めてこぶしを握り締める。
「――やめろ」
 互いの存在を確かめ合うように、少女は光を見据えたまま微動だにしない。その光景に唇を噛み締め、表情を歪めながら神田は呻く。
「やめろ、違う」
 違う。こんなことは望んでなどいなかった。光の正体を見間違えるはずもない。決して長い時間とはいえないが、こなした任務の数は相当なもの。折に触れ目にし、この手でアクマから護り、教団へと運び続けたその光、その気配を違えるはずもない。ただ、認めたくなどない。神の結晶が、その贄に彼女を選ぶなどと。
 どんな窮地に立たされても感じることのなかった深く昏い感覚が胸の底からじわじわと湧き出し、神経を飲み込んで四肢の末端へと染みていく。音にならない声で頑是無い拒絶を繰り返し、神田は力ない抵抗を試みる。
 いっそ塞いでしまいたい、しかし逸らすことのできない視界の中でふっと少女の口元が綻び、声が静寂に融ける。呼ばうはその武器の名か。声を境に光が収束しはじめ、聖堂が元の薄闇を取り戻す頃、は手の内に一振りの刀を携えていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。